最高裁判所第三小法廷 昭和56年(あ)897号 判決 1984年4月24日
主文
原判決中被告人波谷守之に関する部分を破棄する。
本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。
理由
(一) 弁護人河村澄夫、同泉政憲、同菊池利光、同原田香留夫、同西嶋勝彦、同後藤昌次郎、同角田由紀子、同佐々木静子、同島崎正幸、同渡辺俶治、(二) 同後藤昌次郎、同西嶋勝彦、同角田由紀子、(三) 同原田香留夫、同佐々木静子、同島崎正幸の各上告趣意は、末尾添付の各上告趣意書記載のとおりである。
職権をもって調査すると、原判決中被告人波谷守之に関する部分は、刑訴法四一一条一号、三号によって破棄を免れない。その理由は、以下に述べるとおりである。
一 原判決が是認した第一審判決の認定判示した犯罪事実の要旨は、
「被告人は、神戸山口組系菅谷組傘下波谷組組長であるが、福井県内を根拠地として菅谷組の傘下にあった川内組が菅谷組から離反し、一方もと川内組組員坪川三彦を中心に結成された菅谷組傘下浅野組内共進会が福井市内に事務所を開設したのに対し、昭和五二年三月これが川内組組員により襲撃されたことなどから、川内組と菅谷組傘下の各組との間に反目感情が激化していたところ、被告人は川内組組長川内弘(以下、川内という)の殺害を企て、同年四月一日午後七時ころ、大阪市阿倍野区播磨町一丁目一四番二九号所在の被告人方に、波谷組組員延岡朝夫(以下、延岡という)を呼び寄せ、一階応接間において、同人に対し、『川内をやってくれ、お前の他にもう一人つけるがお前がリーダーとなってやってくれ』と申し向けて川内の殺害を命令し、よって延岡に右殺害を決意させ、次いで同月五日ころ、同所において、同人に対し回転弾倉式けん銃二丁(三八口径と三二口径)及びその実包各六発を手渡し、延岡をして、浅野組若頭補佐首藤新司(以下、首藤という)、波谷組内藤島組組員田中政治(以下、田中という)、共進会石川県支部組員中川徳治(以下、中川という)と共謀のうえ、同月一三日午後一時ころ、福井県坂井郡三国町梶五字菰田二〇番地所在の珈琲専門店『ハワイ』店内において、川内をけん銃で射殺するに至らしめ、もって殺人の教唆をしたものである(なお、加えて、右けん銃及び実包の手渡しの際のこれらの所持が銃砲刀剣類所持等取締法違反及び火薬類取締法違反とされている。)。」というのである。
右事実中、被告人、延岡、首藤、田中及び川内の組織上の地位、各組織間の関係及び反目状況、並びに延岡ら四名による川内殺害の点は記録上明らかであり、また、川内殺害が実行行為者である延岡ら四名のみによって計画立案されたものではなく、その背後に暴力団組織の上位の者からの指示命令があったとしか考えられないことも、記録上明らかである。問題は、延岡の背後にいた者が被告人であるか否かであるが、被告人は捜査段階から一貫してこれを否認しており、被告人の教唆等(けん銃及び実包の所持を含む)に関する直接証拠としてはわずかに第一審において刑訴法三二一条一項二号後段の書面として取り調べられた延岡(一、二審相被告人)の検察官に対する昭和五二年六月二〇日付及び同月二一日付各供述調書(以下、この二通の調書を延岡検面調書という)があるのみであり、これと大綱において同旨である延岡の司法警察員に対する同年五月一六日付供述調書(以下、延岡員面調書という。その作成日付が争われているが、この点については後述する。)及び延岡検面調書の内容の一部を裏付けるような供述を含む延岡Ⅰ子の司法警察員に対する供述調書は、いずれも原審において刑訴法三二八条の証拠として取り調べられているにすぎない。一、二審判決とも、延岡検面調書の信用性を肯定し、第一審判決は被告人を懲役二〇年(未決勾留日数三五〇日算入)に処し、原判決は被告人の控訴を棄却した(原審における未決勾留日数六五〇日算入)。
二 原判決が延岡検面調書の信用性を肯定すべき理由として指摘する事項は、おおよそ次のとおりである。
① 延岡の昭和五二年四月一日から同月七日ころまでの飲酒遊興等の行動は、上位者から突然自己の望まない川内殺害の指令を受けた衝撃に起因するものとしてはじめて了解可能である。
② その際の逸楽の伴侶としては、右の衝撃を与えた者やこれと密接な関係を有する者ではなく、内妻Ⅰ子や延岡を慕う田中のように延岡が愛惜の情を措く者を選定するのがむしろ自然の人情である。
③ 延岡は、当初こそ、犯行関与者を実行行為者四名に限り、累を他に及ぼさないとの、逮捕前四名で打ち合せておいた筋書に従って供述していたものの、逐次前供述の捏造部分や秘匿部分を明らかにしており、その供述が真相に近づいていく様子を看取できる。
④ 背後の関係者の名前を供述すればその者に対し捜査の手が伸びることは必至であることを十分認識していたはずの延岡が、堂山衛警部補(以下、堂山警部補という)に対して、真実を述べるからとして一週間の猶予を求め、熟慮のあげく、被告人が教唆者であると供述し、高木康次検察官(以下、高木検事という)に対しても、涙ながらに同旨の供述をしたのであるから、延岡が後に弁解するように、堂山警部補の取調が執拗で堪えきれなくなり、いい加減な嘘をついておけば後ですぐ供述の虚偽性が証明されるからという軽い気持でしたものと認めることはできず、真実に反して義理も恩もある親分の名を述べたとは考えられない。
記録に照らし、右原判示について検討してみると、右①②③の点はともかくとして、④の点は、特段の事情がない限り、延岡検面調書の信用性の評価に際し、ほとんど決定的とも思われる点であって、これのみで、右検面調書の信用性は、その細部についてはともかく、被告人が教唆者であるとする大綱において揺らぐことはないとしてよいくらいである。すなわち、組織的にみて、延岡ら実行行為者四名はいずれも菅谷組傘下の各組に属し、被告人も延岡の直属の親分としてその組織系列の上位に属するのであって、対立抗争中の他の組の親分を殺害するという波谷組にも影響が及ぶ重大事を延岡が親分である被告人に無断で敢行するということは通常考えがたいところ、延岡が捜査官の取調において教唆者として被告人を名指しした以上その信用性は極めて高いと考えられて当然であろうし、延岡の公判供述も変遷を重ねているが、原審においても、教唆者は被告人以外の者であるとしながら、その人の名前はいえないと述べ、けん銃二丁の出所や約二〇〇万円の現金の調達方法については全くの作り話としか思えない供述を繰り返しており、しかも、何故捜査官に対し被告人が教唆者であると述べたのか納得のいく説明ができないでいるのである。
しかしながら、記録によると、延岡検面調書の信用性については次のような諸事情も認められるのであって、全く疑問を容れる余地がないとも言い切れないのである。
第一に、延岡検面調書を信用できるものとしても、延岡ら実行行為者四名の背後関係の全貌が明らかになったというにはほど遠いのであり、特に、同じ菅谷組傘下とはいえ、所属組織を異にする延岡と首藤が結びついたのはどうしてかが明らかでなく、延岡の背後にいた者として被告人を想定することが容易であるのと同程度に、首藤の背後にいた者としてはその直属の親分にあたる浅野組組長甲野太郎や同副組長乙野次郎(以下、乙野という)が想定され、更に、そのまた背後に、被告人や甲野太郎らより上位の菅谷組関係者の存在が想定されなくもないのであるが、本件一、二審で取り調べられた証拠からはこれらはあくまで推測にとどまるのであって、延岡にしても検面調書においてこれらについて知っているすべてを供述しているものとは認めがたく、また、首藤が自己の背後関係を秘匿していることも明らかである。したがって、原判示の前記③の点もさほど重視することはできず、延岡検面調書中にも虚偽が含まれており、しかも延岡において虚偽を述べた理由を秘匿し続けているという可能性を全く否定し去ることはできないといわなければならない。
第二に、延岡に対する教唆者として被告人以外の者は全く考えられないか否かである。延岡は、被告人と同じ呉市阿賀町の出身で、昭和三〇年代中ごろ被告人の子分になったのちも、浅野組の者らと親しく交わり、特に乙野とは早くから兄弟分の契りを結び親密な関係を保っており、昭和三六年ころ柳川組と山口組系の中村組とが北陸方面で対立抗争した際、被告人に無断で乙野らとともに中村組の応援に駆けつけたため、被告人との間で気まずい雰囲気が生じ、被告人に対し浅野組に移籍することを認めてほしい旨申し入れて被告人の不興を買い、被告人から呉に帰っているように言われて事実上の破門処分を受け、被告人の許を離れたのであるが、昭和四七、八年ころ被告人の許への復帰を許されるまでの約一〇年間は、乙野から経済的援助を受けており、その後も乙野の紹介で同人の住居及び事務所の近くに居を構え、毎日のように乙野の事務所に顔を出すなどして同人と親密な交際を続けていたのであった。そして、川内組と直接対峙していた共進会は浅野組の組織下にあるものであり、浅野組内でも特に乙野は昭和五二年三月一日の共進会の事務所開きに自己の配下の者二〇名余を引き連れて出席するなどして共進会を支援していたものであること(以上の事実の概略は原判決も認定している。)をあわせ考えると、延岡が、原審において、川内殺害は、名前を言えない人(「Aさん」)から頼まれたとしつつも、そのAさんについて、「親分(被告人)かたら破門を受けて行くところがなかったとき随分世話になって極道の義理として頼みを断れない人である。」旨のかなり具体的な供述をしていることを全く無視することもできない。原判示の前記①の点は、教唆者が被告人でなく他の者であるとしても説明できるのであり、同②の点も、飲酒遊興の相手方が内妻Ⅰ子や田中のみではなく乙野を含む浅野組組員も含まれており、しかも乙野らによって延岡の送別会まで開かれたりしているのであって、これらの事実からすれば、延岡の背後にいた者として、被告人以外の者が考えられなくはないということができよう。
第三に、延岡検面調書と延岡員面調書との間には、四月一日の被告人からの呼び出しの電話があった時刻、四月五日ころの被告人方訪問の回数、態様、被告人から渡されるときのけん銃、実包、現金の状態など必ずしも些細とはいえない点で供述のくい違いがあり、これらを単に記憶違いということで説明し尽くすことは困難ではないかと思われる。また、延岡検面調書では、延岡は四月一日も同月五日ころのいずれも、誰の案内も受けずに被告人方応接間に通り、応接間には被告人が一人で待っていたとなっているが、波谷組事務所となっている被告人方には、インターフォンが設置されており、組員であっても常駐している当番の組員の案内なしには応接間に入れないような仕組みになっていることと矛盾するといわざるをえないなど、供述内容に不自然なところもないではない。
第四に、延岡員面調書の作成時期について、延岡は、一、二審公判を通じ、延岡検面調書作成の二、三日前(昭和五二年六月一七日か一八日ころ)である旨かなり具体的に供述しており、他方、堂山警部補及び高木検事は第一審においてそれぞれ延岡の右公判供述を否定する趣旨の延岡の供述経緯についての証言をしているところ、第一審判決は延岡員面調書がその日付どおり昭和五二年五月一六日に作成されたものであるかどうか疑問が残る旨判示し、原判決も右堂山証言及び高木証言はいずれも甚だしく不自然、不合理であってそのとおりに措信することはできない旨判示している。そして、記録によれば、右各判示は是認できるのみならず、延岡の右公判供述を排斥することは困難であるというほかない(原判決は、一方で右のように判示をしながら、結論としては、文字どおり五月一六日に作成された旨認定しているところ、証拠に基づく合理的な理由は示されていない。)。そうすると、延岡は、昭和五二年四月一五日の逮捕以来約二か月間身柄拘束下でほとんど連日堂山警部補らの取調を受けた後、はじめて教唆者として被告人の名前を出したことになり、その間に、原判決が認定するような堂山警部補による延岡に対する便宜供与すなわち接見禁止中であるのに独断で内妻Ⅰ子(その後婚姻届を出した。)と長時間面会させるなどした事実が介在しているのであって、この点も延岡検面調書の信用性の評価において考慮されなければならない。
このように、延岡検面調書の信用性は必ずしも確固不動のものであるとまではいいがたいのであって、例えば有力なアリバイ立証などがあれば、右の諸事情と相俟って、被告人が教唆者であるとするその核心部分の信用性まで根底から覆りかねないということができよう。
(なお、延岡検面調書の証拠能力についても、第一審以来争われており、原判決が判示するような理由によってたやすくこれを認めることが許されるか否かについて問題がないわけではないが、いまこの点については、原判決の結論に従うとしても、少なくとも、その信用性の判断がいっそう慎重になされるべきことはいうまでもない。)
三 そこで、次にアリバイの成否について検討する。
1 前記のとおり、第一審判決は、昭和五二年四月一日の午後七時ころ被告人方において被告人が延岡に川内殺害を教唆したと認定し(延岡検面調書中には四月一日ころという幅のある記載もあるが、高木検事は、延岡は自己の面前で四月一日と明瞭に特定した供述をした旨証言している。)、原判決もこれを是認している。
被告人は、捜査段階及び第一審においては、四月一日の自己の行動につき記憶がない旨述べていたが、その後弁護人ら関係者に調査してもらった結果明らかになったとして、原審第六回公判期日以降右判示日時には大阪市南区玉屋町二〇番地玉屋町センター内のスナック「H」(以下「H」という)において飲酒中であった旨のアリバイを主張するに至っている。
その主張の要旨は、「被告人は昭和五二年三月二九日から丙野三郎(不動産業等を営む知人)及びA子(呉市で飲食店を営む者で被告人とはかねて親しい関係にあった)とともに上京しており、東京ヒルトンホテルに滞在し三月三一日夕方大阪に帰ってきて、同夜はA子と大阪市天王寺区生玉町所在のホテルニューオータニに泊まった。翌四月一日は午後三時過ぎに起床し、当日はA子の友人であるB子が『H』を新規開店する日で、A子は臨時のホステスとして手伝うことにしており、被告人も開店祝に飲みに行くことを約束していたので、A子と二人で大阪ミナミで食事をして、心斎橋筋をぶらついて開店祝の品を買い求めるため何軒かの店を見てまわった末、輸入雑貨小売店『R』北店でアラバスター製のオウム像を買い、二人でこれをさげて午後六時過ぎに『H』に赴いた。被告人は開店第一号の客で、Bやホステスたちのほか、マスター、バーテンをも自席に招いて飲酒するうち、午後八時過ぎころになり、ようやく二番目の客(尾崎純生ら)、三番目の客(杉崎)が順次来店したので、A子を店に残したまま一人で近くの馴染みのクラブ『X』、『Y』に飲みに行き、『Y』のホステスらを連れて『H』に戻って飲み直し、更に近くのゲイバー『Z』で飲んでいるところへ、『H』での手伝いをすませたA子が迎えに来たので、同女と一緒に翌四月二日午前二時過ぎか三時ころホテルニューオータニに帰った。」というのである。
右アリバイについては、被告人の原審供述のほか、A子、B子、丙野三郎及び尾崎純生が右主張に沿う証言を原審でしているし、被告人の名前が一番はじめに記載されている「H」の売上帳(昭和五二年四月一日欄)や「H」に現存するアラバスター製のオウム像等の物的証拠も存する。
2 原判決は、「H」が昭和五二年四月一日に新規開店したこと、及びA子が当夜同店でホステスとして稼働していたことは認めつつも(記録上、右認定に疑問を入れる余地はない。)、右アリバイ主張を排斥しているが、その理由としては、① 「H」の売上帳の正確性を確認することができないこと、② 「R」北店で本件オウム像を販売したのは四月一日ではなく三月三一日であると認められることの二点をあげている。以下、順次その当否を検討する。
原判決は、①について、「スナック店『H』では昭和五二年度売上帳のみは、昭和五五年に至るまで保存してあるものの、右売上帳は売上の都度作成する伝票を整理して記帳するものであり、しかもその伝票枚数も一年度分を合計しても保存上不便がある程の量には到達しないと断ずることができるのに、右伝票はすべて廃棄してしまってあり、売上帳に対応する仕入帳や、賃金等経費の記入資料は廃棄したか又は当初から全然記帳していないものと認められる。スナック『H』の売上帳はこれと帳簿組織上関連を有する現金出納帳や売掛帳その他右売上帳の記載資料となった筈の伝票類との照合突合せ等によってその記載の正確性を確認するに由ないもので、直ちにB子、A子及び被告人の各供述を裏付け、被告人のアリバイを証明する資料とはなし難いものと断ずることができる。」旨判示している。
しかし、記録によると、「H」は夫婦二人で経営している八坪程度のスナックであり、個人経営で税法上の青色申告はしていないことが認められるところ、この程度の業態の店に、諸帳簿、伝票類の完全な整備保存を期待したり要求したりすることは、無理であるとも思われるのであって、B子の「伝票は売上帳、掛売台帳への転記が済めば、その都度あるいは一月ぐらいたまったものを処分してしまい、とくに保存していなかった。仕入帳は必要性を感じなかったから作っていなかった。」旨の原審証言も必ずしも不自然ではないと思われる(なお、原判決は、「H」の売上帳は昭和五二年度分のみが保存してあり、五三年度分や五四年度分は保存していないと判示しているように読めないではなく、また、売掛帳も存在しないかのように判示しているが、記録によると、このように認めるに足りる証拠はみあたらず、かえって、右各帳簿の存在をうかがわせるB子の原審証言がある。)。
のみならず、本件においては、売上帳が全体として正確に記載されているかどうか、すなわち全体的に記帳もれ、記帳の誤り、計算の誤り等があるかどうかが問題となっているのではなく、「H」が新規開店した当日である四月一日欄の一番はじめに被告人の名前が記載してあるのは、同日被告人が「H」に第一号の客として来たという事実があったためであるか否かという点だけが問題なのである。したがって、売上帳全体が偽造されたとか、右記載部分が改ざんされている疑いがあるのでない限り、伝票類や関連帳簿との照合ができなくても、売上帳の右記載はB子らの原審証言を裏付ける証拠価値を有するといわなければならないところ、記録上そのような偽造や改ざんを疑わせる証跡は存しない。
このように、売上帳の証拠価値に関する原判断は、検討不十分のそしりを免れないというべきである。
次に、原判決は②について、「『H』店内に開業日当日ころから置かれているオウム石像は東京都港区浜松町所在の三協貿易株式会社が昭和四八年度中にイタリヤから輸入し、昭和五一年九月一〇日大阪市南区心斎橋所在の株式会社Rに販売し、同株式会社には心斎橋筋に本店店舗と北店と称している本店の北方約一〇〇メートルの場所に所在する店舗とがあり、その北店一階売場において昭和五二年三月三一日午後五時ころ代金五万八、〇〇〇円で売り上げたことは確実不動の事実として認めることができる。」旨判示している。たしかに、原判決も挙示するとおり、右認定に沿うような原審証人丁野四郎及び同木村朝生の各証言があるうえ、「R」北店の売上ノート及び業務日誌に三月三一日にオウム像を五万八〇〇〇円で販売した旨の記載があり、北店一階のレジシートにもそれに該当すると思われる打刻があるが、四月一日については、北店と本店を通じて、そのような記載等はみあたらない(なお、「H」にあるオウム像が三協貿易株式会社の取扱ったものであるとまで断定しうるかは疑わしい。)。
しかしながら、一見動かしがたいかのようにみえる右売上ノート等の物的証拠にも、次のような疑問点が存するのである。
第一に、問題の昭和五二年三月三一日と同年四月一日の売上ノート、業務日誌及びレジシートを比較対照してみると、相互間にかなりのくい違いがあることが明らかである。すなわち、レジシートに打刻があって売上ノート及び業務日誌に記載のないものが相当数あり、しかもそれは値段の安い品に限らないのであり(例えば、四万二〇〇〇円のバッグなどがある。)、また、業務日誌にあって売上ノートにない品もある。のみならず、レジシートは販売したすべての商品が打刻されていなければならないはずであるのに、売上ノートや業務日誌に記載がありながら、レジシート上に該当する打刻がみあたらない商品も散見されるのである。これらの齟齬のうち、前者については、記載もれということで説明がつかなくはないが、後者についての合理的説明は困難であると思われる。
第二に、北店の前記両日の分であるとして原審で取り調べられているレジシートには、「31 MAR 78」「1 APR 78」との打刻があるが、昭和五二年のものであるとすれば「78」は「77」でなければならないのである(ちなみに、業務日誌に貼付されていた昭和五二年六月一一日のレジシートは正しく「77」と打刻されている。)。この点につき、心斎橋「R」営業部長丁野四郎は原審証言中で、「レジスターの日付用スタンプの日を変えたときに年の分も一緒に動くことがあり、それに気付かないで打ったのではないかと思う。」旨説明しているが、原審において、弁護人は、当時「R」北店が使用していたと思われるNCR電子レジスターの日と月の表示は機械の外側にある装置を操作するだけでこれを変えることができるが、年の表示は機械を開けて内部にある装置をドライバーで動かさない限り変えることはできない仕組みになっている旨主張して、右レジスターの使用説明書の取調を請求し、検察官の同意もあったのに、原審はこの請求を却下し、更に、弁護人が丁野証言を弾劾するため、刑訴法三二八条により右使用説明書の取調を請求したのに対しても、これを却下している。しかし、仮に弁護人の主張どおりの事実が認められるとすれば、別の合理的説明がない限り、このような年の表示の誤りを業務の通常の過程で自然発生的に生じたものとみることはできないことになると思われる。
第三に、売上ノート及び業務日誌の「オーム置物58,000」の各記載場所をみると、売上ノートではその頁の最下欄の末尾であって、後に追加して記入するのには便利な位置であり、業務日誌では通常品目の見出しが異なるごとに一、二行の空行が置かれているのに、右記載は、インテリアの項の末尾にあって、次の「(バック)」という見出しの記載との間には空行がないので、これまた後に記入されたのではないかとの疑いを招きかねないのである。
以上のとおり、原判決がアリバイ否定の重要な拠り所としている右売上ノート、業務日誌及びレジシートには、その証拠価値をめぐるかなりの疑問が残されているのであって、これら疑問点を解明しないまま、右レジシート等の記載に絶対的な信を措くのは相当でないといわざるをえない。
3 ところで、A子及びB子の各原審証言が信用できるとすれば、昭和五二年四月一日午後七時ころという本件教唆の時刻について被告人のアリバイが成立することは明らかであるところ、右各証言には格別不自然な点はみあたらず、前記のとおり「H」の売上帳にも偽造ないし改ざんを疑わせる証跡はみあたらない。A子は被告人と特別な関係があるからともかくとしても、B子は被告人とさほど強い利害関係を有しているとは思われないが、同女の「被告人は開店第一号の客であり、被告人が来た状況について鮮明な記憶があった」旨の証言内容からして、これが仮に真実に合致していないとすれば、単なる記憶違いということでは説明がつかず、被告人やA子らとの打ち合せに基づく計画的な虚偽供述であるというほかなく、売上帳もこれに合わせて巧妙に細工されたものということになり、いわゆるアリバイ工作があったといわざるをえないこととなろう。逆に、このようなアリバイ工作があったとみることに疑問が残ることになれば、被告人のアリバイも軽々に否定し去ることはできないことになろう。
そこで、右アリバイ関係の証拠が提出されるに至った経緯について検討するのに、弁護人らが原審以来主張するところの要旨は、「弁護人渡邊俶治は、原審段階になって、被告人の検察官に対する昭和五二年九月二〇日付供述調書中で、被告人が、四月一一日から一五日までの間東京赤坂のホテルにいて、一四日電話で川内殺害の件を知った旨述べている点に着目し、本件当時の被告人の行動を明らかにする鍵があるかもしれないと考えて、まず、その際の同行者の有無を調査したところ、丙野三郎が同行していたことが判り、同人から提出を受けたホテルの領収書によって、右期間のほか、同年三月二九日から同月三一日までの間も被告人と丙野三郎が東京赤坂の東京ヒルトンホテルに泊まっていることが判明した。そこで、同弁護人が、被告人に右領収書及び添付の明細書を示して記憶の喚起を促しているうち、昭和五五年一月一一日(原審第五回公判の日)金沢刑務所での接見の際、たまたま、領収書添付の電話票に話が及び、四月一二日から一四日の宿泊の際は、丙野と被告人の双方の部屋から韓国ソウルへ電話されているのに、三月二九日から三一日の宿泊の際には丙野の部屋からだけ韓国に電話していることが不審に思われたので、被告人に問いただしたところ、被告人は、『ひょっとしたら、広島の電話番号八〇〇〇番のクラブに勤めている女を連れて上京したのが三月二九日のことかもしれない。その女の友人が大阪のミナミでスナック形式のクラブを開店するので、その手伝いに大阪に出てきて、一週間ほど上六のニューオータニという連れ込みホテルに泊まっていたが、その間一緒に上京したことがあり、それがいつだったかは覚えていない。広島の女は向和敏(波谷組組員)が知っており、そのスナックへは向を連れて行ったことがあるが、名前は覚えていないので、向に聞いてほしい。』旨答えた。その日の夕刻、渡邊弁護人は金沢から帰阪の車中で、同行していた向から右スナックが『H』であると聞き、更に同夜、向から松本年春(波谷組若頭)を介し電話で『H』の開店日は昭和五二年四月一日であり、その日に被告人が開店第一号の客として『H』に行ったとの報告を受けた。そこで、渡邊弁護人は、翌一二日夜『H』へ赴いてB子に会い、事情を聴取したところ、右報告のとおりであったので、同女から同店の昭和五二年四月一日から同年一一月二〇日までの売上帳一冊を借り受けるとともに、向を通じて連絡してあったA子にも同日夜半『H』で会い事情を聴取した。右関係者らの供述により、四月一日に被告人とA子が『H』に開店祝としてアラバスター製のオウム像を持参したこと及び被告人らがこれを買ったのは心斎橋の『R』という店であることが判明したので、渡邊弁護人は、アリバイ発見の翌々日である昭和五五年一月一四日『R』本店に赴き営業部長丁野四郎に面会し、右オウム像の写真を示すなどして販売日時の確認を求めたが、即答が得られず、同月一六日同弁護人は大阪弁護士会を通じて照会をし、翌一七日の原審第六回公判期日で弁護人らはアリバイ主張をするに至ったが、その後再三の催促にもかかわらず、右照会に対する回答は得られなかった。」というのである。
右アリバイ発見の経緯に関する主張については、被告人、B子、A子及び丁野四郎が原審でそれぞれ部分的ではあるがこれに符合する供述をしているほか(右主張のすべてをカバーするものではない。)、原審において弁護人らは、右の点を全体的に立証するため、渡邊弁護人の証人尋問を請求しているが、原審はこれを却下(これに対する弁護人の異議申立も棄却)している。
アリバイ発見の経緯が右主張のとおりであるとすると、売上帳の偽造・改ざん、関係者の口裏合せを行う時間的余裕はなかったといわざるをえない。また、オウム像の購入の点についても、右のように、渡邊弁護人は自ら「R」本店に赴くとか、弁護士会を通して照会するという調査方法をとり、しかも「R」からの協力が得られる見通しも立たない段階で、アリバイ主張に不可欠とも思えないオウム像の件をA子及びB子は具体的に証言していることになるのである(右各証言は原審第七回公判期日でなされているし、「R」のレジシート等は検察官によって同第一二回公判期日に提出されていることが記録上明らかである。)。これらは、アリバイ工作が存在したとみることと両立しがたい事情というほかないと思われる。
なお、原審における被告人質問において、オウム像を購入した「R」の位置につき、弁護人は本店を念頭に置いた誤導的質問をしているが、検察官の求めに応じて被告人が作成した図面は、ほぼ正確に北店の位置を示しているのである。このことは、はからずも、アリバイに関する被告人の原審供述の信用性を否定しがたくする一事情となっており、また、アリバイ工作がなかったことをうかがわせるということもできそうに思われる。
原審は、このように重要な意味を持つアリバイ判明の経緯について、前記のとおり弁護人からの証拠調請求を却下し、十分な審理を尽くしておらず、何らの判示もしていないのである。記録上、原審がこのような措置をとった理由は必ずしも定かではないが、延岡検面調書の信用性には全く疑問をいれる余地はないと判断したほか(これが必ずしも是認できないことは、前述した。)、本件アリバイ主張が時期的に遅いという点を重視したのではないかとうかがわれなくもない。しかし、一般に、あまりに遅れたアリバイの主張及び立証は、それ自体不自然で疑わしいといわれてもやむをえないものであり、検察官側の反証も困難であって、これを肯認するについては慎重であるべきであることはもちろんであるが、アリバイ発見の経緯に関する主張の当否等を検討することなく、ただ遅きに失しているという一事をもってこれを軽視するのは相当でないというべきである。
4 以上のように、アリバイの成否に関する原審の審理判断は粗略の感を免れず、結局、原審で取り調べられた証拠のみによって被告人のアリバイ主張を排斥することは許されないといわなければならない。
四 以上に説示したとおり、本件においては被告人の延岡に対する殺人教唆等についての唯一の直接証拠である延岡検面調書についてその証拠価値に疑問を容れる余地がないとはいえず、被告人のアリバイの成否については幾多の疑問が残されているのであって、原審がその説示するような理由で、延岡検面調書の信用性を認めて本件につき被告人を有罪とした判断は、このままでは支持しがたいものといわなければならない。そうすると、原判決には、いまだ審理を尽くさず、証拠の価値判断を誤り、ひいて重大な事実誤認をした疑いが顕著であって、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
よって、各上告趣意につき判断を加えるまでもなく、刑訴法四一一条一号、三号により原判決中被告人波谷守之に関する部分を破棄し、同法四一三条本文に従い、さらに審理を尽くさせるため、本件を原審である名古屋高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
(横井大三 伊藤正己 木戸口久治 安岡滿彦)
《参考・原審判決》
〔主文〕
被告人波谷守之の本件控訴を棄却する。
被告人波谷守之につき当審未決勾留日数中六五〇日を同被告人に対する原判決の本刑に算入する。
原判決中被告人延岡朝夫に関する部分を破棄する。
被告人延岡朝夫を懲役一三年に処する。
被告人延岡朝夫につき原審未決勾留日数中五〇〇日を右刑に算入する。
被告人延岡朝夫から押収にかかるけん銃(回転弾倉式三八口径×三一八〇)一丁(昭和五四年押第一九号の一)、同(回転弾倉式三二口径番号七二七×〇)一丁(同号の三)、実包(三八口径回転弾倉式けん銃用)五発(うち一発は試射済)(同号の二)、同(三二口径コルト式けん銃用)三発(うち一発は試射済)(同号の四)、空薬きよう(三二口径コルト式けん銃用)二個(同号の五)、弾丸(三二口径長さ1.4センチ)一個(同号の九)、同(三二口径長さ1.23センチ)一個(同号の一一)を没収する。
〔理由〕
本件控訴の趣意は、被告人波谷守之の弁護人田中勇雄、同泉政憲、同菊池利光、同川崎敏夫、同北尾強也、同渡邊俶治名義の控訴趣意書及び被告人延岡朝夫の弁護人松浦陞二、同岩淵正明名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。
被告人波谷守之の弁護人田中勇雄、同泉政憲、同菊池利光、同川崎敏夫、同北尾強也、同渡邊俶治の控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反)の所論は要するに、被告人波谷に関する原判示事実認定の唯一の証拠である延岡朝夫の検察官に対する供述調書二通(昭和五二年六月二〇日付、同月二一日付)は、左記いずれの点からしても証拠能力を認めるに由ないのに、原審がこれを採証して被告人波谷の犯罪事実認定の証拠としたのは、その訴訟手続が法令に違反したものというほかなく、右訴訟手続の法令違反が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのであり、同控訴趣意第二点(事実誤認)は、その記載内容が余りにも簡に過ぎ、矛盾に満ちていて、しかも確たる裏づけ証拠もなく、到底信用できない延岡朝夫の右検察官に対する供述調書二通の記載を信用して、原判示事実を認定し、なんらそのような所為に及んでもいない被告人波谷を原判示殺人教唆罪等に問擬した原判決は事実を誤認したもので、右事実誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
記
延岡朝夫の前記検察官に対する供述調書二通に証拠能力が認められない理由
1 前記延岡朝夫の検察官に対する供述調書二通は最高裁判所昭和三六年一一月二一日決定により許容される限度を遙かに越えて延岡朝夫に対し本件公訴が提起された後に同人の被告人たる立場を無視して取調を行つた結果作成されたものである。
2 当時延岡朝夫は本件により勾留中で接見並びに文書授受禁止の裁判を受けていたのに同人の取調に当たつた司法警察員堂山警部補は三回にわたり内妻I子(後に婚姻して正規に妻となつた)と長時間面接させ、右延岡の所持金を同女に届けてやつたり、更に大阪市内のスナック店で堂山警部補自身I子と会見して親切な話をし、また共犯者田中政治と電話連絡をすることを認める等高度に違法な措置をして右延岡に恩を売り、また歓心を買い、同人に教唆者が何人であるか等に関し取調官に迎合する供述をせざるを得ない様に心理的強制を加えてかかる違法な取調の結果延岡に殺人を教唆し兇器の拳銃等を提供したのは被告人波谷である旨の供述をさせて、これを記載した供述調書を作成したものであるから、右供述調書が違法収集証拠として証拠能力を欠くことは勿論であり、原判決もこの理を認めたものであるところ、前記二通の検察官調書を作成した検察官検事高木康次の取調は前記堂山警部補の違法取調の延岡に対する影響を遮断するなんらの措置をもとることなく、その瑕疵をそのまま引き継いでなされたものであるから、堂山司法警察員調書と同じ法理により証拠能力を否定すべき違法収集証拠であつて、その証拠能力は否定せらるべきものである。
3 前記延岡朝夫の検察官に対する供述調書二通は、前記堂山において連日長時間執拗に教唆者名を述べるよう強制し、その他前記のような心理的強制を加え、更には内妻I子との面接、便宜な取計らい、教唆者名を述べれば刑期も短かくなるなど申し向ける等の利益誘導をして延岡朝夫を取り調べ、高木検事においても右違法性をそのまま引き継いだ取調をした結果作成されたものであるから任意性を欠き、従つて被告人波谷の関係においても憲法三八条、刑事訴訟法三二五条、三一九条により証拠能力を欠くものというべきである。
4 前記延岡朝夫の検察官調書二通はその取調方法が違法、不当である点からしても、またその内容が余りにも不合理で矛盾に満ちている点からしても刑事訴訟法三二一条一項二号に規定する「公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況」が存在しないことは明らかであるから証拠能力を認めるに由ない。
所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して検討するに、右記録に現われた証拠及び右事実取調の結果を総合すれば、次のとおりの事実を認定することができる。すなわち
一 やくざ組織山口組、菅谷組、川内組、板本組、後藤組、波谷組、浅野組、小山組、加納組、藤島組、佐々木組一心連合心和会の関係
やくざ組織菅谷組(組長菅谷政雄)は全国的やくざ組織山口組に所属していたことのある組であつて、その組織内に更に波谷組(組長被告人波谷守之)、浅野組(組長甲野太郎)、川内組(組長本件殺人罪の被害者川内弘)を擁していたことがあり、また右波谷組の更に下に藤島組(組織藤島章三)が、浅野組の更に下に小山組(組長乙野次郎、乙野は浅野組の副組長でもある。)が、川内組の更に下に板本組(組長板本信明)、後藤組、加納組(組長加納一恵)が所属していたことがあり、また菅谷組に直属する組織かどうか証拠上明らかではないが、その系列下に佐々木組一心連合心和会と称する組織がある。
右の組織系列は後項二に認定する訌争中に離反した分を除けば現在においてもそのまま維持されているものと考えられる。
二 菅谷組系列下の各組の訌争
川内組はもと福井県三国町を本拠として結成されたやくざ組織で、次第にその勢力を同県外にまで伸張し、資金力も漸く増大して菅谷組下の有力組織として成長しつつあつたもので、坪川三彦は副組長の地位にあつたが、組長川内弘の組指導方針に批判的態度をとつて組長と対立するようになり、川内は遂に右坪川及びその腹心の輩下組員を絶縁(組内の下部組織又は組員との関係を絶止するための処分として山口組系列下の組織では破門と絶縁とがあり、破門は事情によつては被破門者が再度組内に復帰することを認める余地を残した処分の意であるのに対し、絶縁はいかなる事情があつても復帰を認めない趣旨の処分であるとされている。)し、右坪川に代えて宮原省治をとり立て、坪川一派を追及する措置をとり、坪川はかねての知合の小山組組長乙野次郎との関係を深めてこれに頼り、更には昭和四九年ごろ坪川輩下の若衆が右宮原を狙撃する事件までが発生するに至つた。
菅谷組では右紛争を川内組限りの内訌であるとみて右紛争解決のため介入する方針はとらずにいたところ、昭和五〇年六月に至り川内組内後藤組と菅谷組系佐々木組一心連合心和会とが抗争した際その解決のため介入した菅谷組のとつた措置が後藤組に対し一方的に不利で甚だしく不公平であると主張した川内組長川内弘は、上部組織である菅谷組のとつた態度に飽く迄も反対し、一時は子分である川内弘の方から親分の菅谷政雄を逆に絶縁するなど号して組員約一〇〇名を結集し菅谷組長と実力で対決することも辞さない態度までとつたこともあり、更には菅谷組長と相い並ぶ山口組直属の組織に川内組を昇格させる運動を山口組幹部に対して行い、昭和五二年一月か二月ころには菅谷組長は川内組長を破門した。
右破門を契機として前記坪川三彦は菅谷組への傾斜を俄に強め、特に浅野組副組長で小山組組長の乙野次郎の支援を受けて、福井市を本拠として同年三月共進会と称するやくざ組織を結成して自らその会長となり、乙野とならんで浅野組の組織下に入り、ことごとに川内組と対立抗争した。
また川内弘の舎弟であつた加納一恵は金沢市を本拠とする加納組を組織し、その長の地位に就いていたが、川内弘の自分に対する態度、仕打がひどいとして自ら離反し前記共進会の組織結成に参画して共進会石川支部長の地位につき、共進会の幹部として川内組と鋭く対立した。
かくするうち昭和五二年三月には川内組系組員二名が共進会事務所を拳銃で襲撃する(但し弾丸がでなかつた。)事態に立ち至り、浅野組、共進会を先鋒とする菅谷組と川内組とは正に累卵の危険を包蔵しつつ鋭く対峙し、川内組側では共進会、菅谷組からの不意の襲撃に備えるためその事務所に常時一〇名乃至二〇名の組員が詰めて警戒し、また組長川内弘の身辺は常に数名の組員が警護するという非常態勢をとつていた(原判決「被告人波谷の判示教唆行為認定の理由」欄2の事実)。
なお菅谷政雄は原判示殺人事件、殺人未遂事件発生後これとの関連があるとして山口組から絶縁され、その際被告人波谷は飽く迄も菅谷組長と行動を共にし、これに忠誠を誓う態度をとつた。
三 被告人波谷及び同延岡並びに首藤新司、田中政治及び中川徳治について
1 被告人波谷守之
被告人波谷守之は広島県呉市阿賀町の出身で昭和四年生、幼時母を失う不幸に遭い、夙に広島市を本拠とするやくざ組織渡辺組に帰属し、その後は組長の死亡により改めて所属した呉市内の土岡組組長が殺害されたためあるいは地方の親分方に身を寄せ、又は諸所を転転、無頼の博徒として渡世し、遂に昭和四六年菅谷政雄の舎弟となり、自ら波谷組を組織して表記住居地に事務所を構え、組員約二〇名(若者頭松本年春、そのほかには組織内に役職者を設けず。)を擁する博徒組織の親分となり、その間昭和二五年(確定は昭和二六年)殺人未遂、傷害罪で、昭和三〇年(確定は昭和三一年)監禁罪、銃砲刀剣類等所持取締令違反罪等で、昭和五〇年賭博開張図利罪でそれぞれ懲役刑に処せられ(最後の刑のみはその執行を猶予された。)、そのほかに賭博罪等により二回罰金刑に処せられた。
被告人延岡は被告人波谷の子分であり(後記事実参照)、また首藤新司は浅野組の組員であつて浅野組と波谷組との連絡の仕事などをしていたので被告人波谷はこれを見知つていたが、同被告人が原判示殺人罪等が敢行される以前に田中政治や中川徳治を見知つていたような証左はない。
2 被告人延岡朝夫
被告人延岡は、被告人波谷と同じ呉市内阿賀町の出身で昭和三年生、小学校も一級上の同窓生で、生来定職、労働を嫌い、徒食するうち、漸く博徒の生活に馴染み、昭和三五年ごろ被告人波谷の子分となりその間浅野組組長甲野太郎、副組長乙野次郎と親しく交わり、浅野組組員首藤新司とも交遊し、首藤も被告人延岡を兄貴と呼び立ててきたが、昭和三六年ころ柳川組と山口組系列の中村組とが北陸方面で対立し喧嘩状態となつた際被告人延岡は、被告人波谷に無断で乙野次郎らとともに中村組の応援に駈けつけ、これを因として被告人波谷との間で気まずい雰囲気が生じ、被告人延岡から同波谷に対し浅野組に移籍することを認めてほしい旨申入れ、当時未だ山口組組織内に編成されていなかつた被告人波谷の不興を買い、同被告人から被告人延岡に対し呉市に帰つているようとの指示があり、被告人延岡は同波谷の許を離れ大阪に在住したり呉市に帰つたりし、大阪在住中は乙野次郎の支援も受けて糊口をしのいだが、被告人波谷が菅谷政雄の子分となつて山口組組織内に編入された後再び被告人波谷の子分としてその事務所に出入し、同被告人としても親分として被告人延岡の必要あるごとに金銭上の面倒も見てきた。もつとも近時は被告人延岡は自分の口は自分で糊している。
被告人延岡は呉市内に居住するころ一度婚姻した経歴をもつものの、子女を儲けないまま間もなく離婚し、昭和四八年ごろキャバレーホステスをしていたI子と知り合い大阪市西成区で同棲し、同女を内妻として勤務もやめさせ、深くこれを愛し、依然として子女を儲けることを得ず。同女の生活に対する配慮もあつてようやく衰えを見せはじめた健康(肝機能やや低下し軽症ながら糖尿病に罹患)に留意して節制を守り、飲酒が過度に及ばないよう配慮していた。
3 首藤新司(昭和一二年生)は昭和三四年ころやくざ組織柳川組の組員となつたが本項2で認定した柳川組と中村組との紛争を菅谷政雄が仲裁したことを機縁として柳川組から離脱して浅野組組員となつて若者頭補佐の地位に就き、乙野次郎と親しい被告人延岡を兄貴として立て、また菅谷組系列下にあつたころの川内組組長川内弘が大阪に立ち寄つた際には案内係を勤め、そのころには同人から目をかけてもらえたと感じてこれを徳としていた。
4 田中政治
田中政治(昭和三一年生)は広島県呉市の出身で、やくざに憧れ、伝手を頼つて大阪に上り、前項一で認定した藤島組組長藤島章三方に寄食して正規の組員たる地位を許されるのを待ち望んでいたもので、被告人延岡とは同郷で旧知でもあり、その愛遇を得て同被告人を「おじき」と呼びこれから小遣銭を受けることもしばしばあつた。
5 中川徳治
中川徳治(昭和二二年生)は、前項一で認定した共進会石川支部長加納一恵の若衆であつて加納の内妻堂谷美津恵名義で営業をする土建業堂谷興業のダンプカー運転手として稼働した経験もあり、右堂谷興業の業務が前項一で認定した板本組組員によつて常日頃妨害されていることもよく認識していた。
なお、中川徳治は原判示殺人罪等を共謀する以前には被告人波谷、同延岡、首藤新司及び田中政治とは相い知らなかつた。
四 昭和五二年四月一日以降数日間の被告人延岡の行動
被告人延岡は四月一日夜分以降それまで慎んでいた酒類を突然暴飲しはじめて、同七日まで、最初の日のみは単身で、その後はあるいは内妻I子とともに、また乙野次郎ら以下浅野組組員数名(但し組長甲野太郎が同行したような証跡はない。)と連日飲酒を続け、特に四月二日午前二時ころ帰宅した際には意識も酔乱のため朦朧とした状態になつており、同月四日ころ首藤新司と落ち合つて川内弘殺害の謀議に及んだ際、互に結手して相涕泣し、被告人延岡においてはもう一〇年若ければよかつたのにと述べ、同月五日ころ被告人延岡方に遊びに訪ねて来た田中政治に対し「お前もしつかりやれよ、俺はこれから永劫留守するかも知れんけんおつかあのことを頼む。」など後事を託する趣旨を述べ、同日夜田中とともに売春婦と接し、同月七日には被告人延岡にどこまでもつき従つて行く態度を示した同人に女遊びをせよとて一〇万円を交付し、また同月三日ころ内妻I子に対し「わしも二年か一〇年になるかわからんが元気でやつてくれよ。」など惜別の辞と解せられる言葉を述べて相擁して互に落涙し、そのころ同女に通常交付する生活費の額(月額二〇万円程度)を遥かに越える約六〇万円の金員を一時に交付したりし更には特別の関係もない飲食に行つた先のキャバレー「メトロポリタン」の従業員坂田頴昭に対してまで「当分来られないから」と述べ、その理由を尋ねた同人に「しばらく旅に出る。」などと説明し、被告人延岡がやくざであることを知る同人に同被告人が何か事件を為出かすのではないかとの疑問を抱かせる挙動にさえ及んだ。
五 被告人延岡らによる本件犯行とその逮捕、勾留、公訴の提起について
かくして被告人延岡及び前記首藤、田中、中川は原判示第一(二)の兇器を使用して原判示第一(一)(1)(2)の兇行を敢行し、その直後四名ともに同一の自動車に乗車して片山津方面に向けて逃走し、途次被告人延岡はできるものなら逃亡したいと考えて田中とともに下車したが、福井県坂井郡丸岡町内で警察官の職務質問を受けて昭和五二年四月一五日丸岡警察署まで任意同行し、そこで逮捕され、首藤は中川を伴い同月一三日午後一時三〇分過ぎころ福井県坂井郡丸岡町女形谷所在の公衆電話六六―三九〇四番から福井県警察本部に川内弘殺害の犯人は浅野組若者頭のこの首藤である旨通報して中川とともに逮捕され、右四名とも逮捕に引き続いてそれぞれ勾留され、同年五月五日原判示第一の各事実につき、福井地方裁判所に公訴を提起された。
勾留日、勾留場所、移監の状況は次のとおりである。
被告人延岡(被告人延岡は昭和五二年五月五日公訴の提起を受けるまでは勿論被疑者の立場に立つていたにすぎないが、以下には便宜上被告人延岡と記載する。)
昭和五二年四月一六日福井警察署留置場に勾留、同年一九日武生警察署留置場に移監、同年七月二七日福井刑務所に移監、昭和五四年四月五日金沢刑務所に移監、その間昭和五二年四月一六日公訴提起に至るまでの接見禁止の裁判を、同年五月五日(公訴の提起日)、同年六月四日までの接見禁止の裁判を、同日、同月二七日までの接見禁止の裁判を、いずれも検察官の請求に基づいて受け、また糖尿病の疑があつて治療の必要性等診断のため、検察官の請求により同月七日、同日から同月二七日までの間医師高原正好との接見を許可(但し同月八日検察官の請求により面接を許可する医師を石坂為久に変更)された。
右勾留の期間を通じ、被告人延岡の健康状態は、肝機能が幾分低下していたためと軽症の部に属するとはいえ糖尿病に罹患していたため、普通正常の健康人に比べれば些かは劣つていたものの、右は本件で勾留されるずつと前からのいわば持病的なもので本件逮捕、勾留によりそれが悪化したような事情はなく、また勾留中の取調にも十分堪えることができたものであつて、右疾病による贏衰のため取調の際心神に相当程度以上の苦痛を感じたり、又はこれを訴えたりした事実は全く認められない。<中略>
六 司法警察員警部補堂山衛及び検察官検事高木康次の被告人延岡に対する取調状況
被告人延岡は武生警察署留置場で取調を受けたが、その取調に当たつた捜査官は司法警察員警部補堂山衛及び検察官検事高木康次であつて、堂山警部補は被告人延岡のほか、内妻I子からも本件に関し事情を聴取してその供述を記載した調書も作成した。
被告人延岡は取調当初の段階から自己の罪責は全面的に認めたが、それは中川徳治から川内弘殺害の相談を受けて賛成し、首藤とも謀つて被告人延岡が「ケンちやん」と称する者からかねて購入しておいた拳銃を使用したものである旨説明し、右供述は実態に合致しない不合理な説明で背後で指示した人物を秘匿するため捏造した虚構に過ぎないのではないかと判断した堂山警部補は被告人延岡から背後事情の詳細な供述を引き出す努力をする方針を固めたものの(前項一に認定したやくざ組織間の対立、抗争状況の概要、原判示第一の各犯罪実行者らの地位と経歴、右各犯罪の態様等既にそのときまでに捜査官に判明していた諸事情を総合すれば、右堂山警部補の判断方針が然るべきことは当然である。)、被告人延岡が内妻I子を深く案じ、その健康や将来の生活のことなどを思い遣り、自身の刑期の長短を気にかけ、事件を敢行するに至つた不幸を嘆じ、心機の動揺常ない態である風を看破し、その供述の矛盾点や不合理性を鋭く突いて質問し、峻厳な態度で望む方針は排し、むしろ寛厚、温情をもつて接し、被告人延岡が自然事実の詳細、背後事情を供述するように導く方針を採り、真実を述べれば裁判所の刑は必ず軽くなる旨を述べるなどして供述を促し、更には後記のとおり接見禁止中の被告人延岡と内妻I子とを秘密裏に面接させ、また右I子のための便宜をはかる等した。すなわち
1 堂山警部補は昭和五二年五月九日被告人延岡との正規の婚姻入籍について話をしたいからとて武生警察署を訪ねたI子を自己の独断で接見禁止の禁を犯して接見させるのであるから他警察官が在署している勤務時間中では具合が悪いからとて夜間に時間を指定し午後八時ころから約一時間かそれ以上にわたり被告人延岡と面接させ、右入籍やI子の低額住居への転居の相談等をすることを許容し、同月二四日には同日早く入籍手続を済ませた旨の報告に同署を訪ねた同女(同日I子は被告人延岡の妻となつた。)を前同様の理由で夜分午後九時ころから約一時間被告人延岡と面接させた。
なお右二回の接見禁止中の接見交通許容のほかに原審証人I子は同年四月二八日午後三時ころ武生警察署でI子の方から頼んだのでもないのに堂山の方から被告人延岡と独断で面接させてやると述べ、取調室で会談し入籍の話をした旨述べ、被告人延岡も原審第二回公判期日に被告人波谷関係の事実の証人として接見禁止中I子と二度か三度面接し、昼に会つたこともあるし夜のこともある旨述べるので、同日にも面接させているのではないかとも考えられるが、他面入籍の相談がなされたのは五月九日であることはほぼ確実であつて、被告人延岡の原審第二回公判期日における供述(但し証人としての供述)は、婚姻を証明する書面をもつて来たのは二回目の面接のときである旨述べるうえ、前記証人延岡I子の供述はその他の部分において俄に信用できない不自然、不合理な部分を多く含むので、四月二八日面接し会話した事実を確認することはできないが武生警察署内で被告人延岡にI子が面接に来た事実を確認させるため堂山警部補がI子と被告人延岡とを相互に望見せしめたような事実は大いにあり得ることと考えられる。
なお原審証人堂山供述中には右I子と被告人延岡との接見禁止中の面接許容について高木検事の取調担当以前に一時被告人延岡関係事件の取調を担当したことのある加藤検事に接見禁止の裁判の一部解除を得てからにしようかとの相談をしたことはあるが、そのままになつた旨述べる部分があり、右によれば検察官においても接見禁止の裁判の一部解除を得ることなしに被告人延岡をI子と接見させることを認めていたのではないかとの疑を容れる余地はある。
また被告人延岡はI子との接見を許容されたことに対しI子退去後堂山警部補に深く感謝の意を表明したのみならず、後日高木康次検察官の取調を受けた際、右接見の事情を説明することにより禁を犯して便宜を計つてくれた堂山警部補に迷惑が及ぶことをおそれ、全くこれに言及しなかつたこと、及び五月九日入籍相談の件は服役期間が一〇年になるとも一五年になるともわからない以上自分からは言い出せないと感じ、被告人延岡から先ず意見を述べる挙には出なかつた事情が認められ、右によれば被告人延岡が堂山警部補の取調が温情的であるのを深く感謝していた事実及び少くとも五月九日の時点においては堂山警部補の刑期についての説得から殺人教唆の事情の供述をすれば自分の刑期が三年とか五年で済むかも知れないなどとの希望を持つに至つてなどいなかつた事情を十分推認することができる。
右両度あるいは三度の接見交通中堂山警部補が武生警察署で被告人延岡とI子との情交や抱擁、愛撫行為は勿論、手を握り合う程度の行為をも許したようなことは認められない。
2 堂山警部補は昭和五二年四月二八日I子が武生警察署を訪ねて来た事実を被告人延岡に伝え、衣類差入依頼を同女に伝えた上、かねてから述べていた被告人延岡の希望の改めての申出により同署の保管にかかる被告人延岡の所持金約七〇万円中の六〇万円を右希望申出の時間が既に通常の保管金引出事務時間経過後であつたので、時間外にこれを特に引き出して同夜I子が宿泊した福井市内赤星旅館のI子使用室まで単身赴いてこれを交付し、被告人延岡が原判示第一(一)1の犯行の教唆者が被告人波谷であることを堂山に供述し、被告人波谷が逮捕される前の同年六月一四日、逃亡した加納一恵の所在捜査等のため大阪市に出張した機会に、市内のスナック店にI子を呼び出し、単身会見し同女の身の保全に配慮し今後は組織関係者を頼つたり、交際したりすることは十分慎むよう述べてそれとなく被告人延岡の教唆者供述の事実をI子に仄かし、その行動の自重を求め、同年九月一日にも大阪府阿倍野警察署でI子と面接した。
堂山警部補は右のほか昭和五二年五月二三日接見禁止中の被告人延岡に福井警察署留置場に勾留されて同様接見禁止中の田中政治と電話連絡をして会話することを裁判所の許可を得ずに許した。
3 右のとおりの取調の経緯中において被告人延岡は公訴を提起された直後の昭和五二年五月六日ごろからその犯行は絶対に名前を出せない何人かの教唆によるものである旨供述し、同月九日に至り、刑を長く勤めた後また極道生活ができるとも思えぬし、堂山の説得も理解できるから一週間考えさせてほしい、背後事情を供述した場合I子の身の安全は大丈夫であろうかなどと述べ、同月一六日堂山警部補の取調に対し、「自分はやくざをやめる決心をした。チャカ(拳銃)は親分(被告人波谷)にもらつた。親分から電話で呼び出され、殺人の教唆を受けた」旨供述し、堂山警部補は右供述内容を取調書に作成した(なお、被告人延岡は同年四月二八日後記加納一恵の名前を出すに際しても三日程考えさせてくれと言い、熟慮の末に供述した。)。
4 堂山警部補が右供述調書を作成した後、高木検事が被告人延岡を取り調べ所論の検察官調書二通を作成するに至るまでの原審証人堂山衛、同高木康次の供述内容はおおむね次のとおりである。すなわち
堂山供述は、五月一六日付被告人延岡の司法警察員調書を作成した後その供述の真実性の裏づけ捜査は被告人波谷を逮捕するまではせず、右調書は六月七日までは(但し当初は六月二〇日までと述べ後に同月七日までと訂正する。)堂山の鞄中にしまつて置き、その事情を検察官には勿論、捜査上の上司にも全く報告してない。そのように供述を得た事情を上司にも報告しなかつたということはそれまで警察官として従事した捜査についてはした経験がない旨述べ、右高木供述は昭和五二年五月下旬堂山警部補ほか一名の捜査官から被告人延岡が教唆者名を供述した旨聞き、六月七日別件公務で武生に赴いた際武生警察署に立ち寄り、同被告人に会つたところ、同人は机上に俯し、慟哭しつつ教唆者が被告人波谷であることを供述したが、その時の会話は一〇分程で終り、調書作成補助事務に従う検察事務官も同行していなかつたことと、被告人延岡が向後右供述を翻すおそれがないことを確信できたので、加納一恵の逮捕をまつて一気に事案の全容を解明したいと考え、また親分名を出した被告人延岡の心情を汲んでできるだけ右供述の事実を秘匿しておいてやりたかつたこととのため六月二〇日までは右供述内容を調書には作成しなかつた旨述べる。
しかしながら殺人教唆者名のごとき重要な事情の供述を得てその司法警察員調書を作成しながら右事実をかなりの期間全く上司に報告しなかつたり、また供述を得た後右の如き理由で検察官調書を作成しないというのは甚だしく不自然、不合理なこと(現に被告人延岡は自ら申し出て同年九月一八日及び一九日右供述を翻し、原審及び当審公判廷でも被告人波谷の教唆を否定し、また高木検事は右被告人延岡供述を得てそれほど日時も経過していない同年六月二〇日及び二一日まだ加納一恵が逮捕されていないのに被告人延岡の検察官調書を作成している。)であつて右堂山、高木供述から、直ちにその内容に沿う事情を認定することはできず、高木検事は堂山警部補が接見禁止の裁判を犯して被告人延岡とI子とを面接させたことを知つており、堂山警部補が五月一六日作成した前示司法警察員調書の証拠能力がそのために否定されしかもその瑕疵違法が検察官調書にも引き継がれると評されることがあるかも知れないことをおそれ、司法警察員調書の証拠能力が違法収集証拠として否定される場合原判決の説示するような理由でその違法性の承継が否定されることを所期して被告人延岡の検察官調書の作成時期を遅らせたのではないかとの疑を挾む余地はある。
なお、被告人延岡が被告人波谷に教唆されて原判示第一(一)1の殺人を敢行した旨供述した際被告人延岡がそれまでずつと続けてきたやくざ生活をやめる心情になつていたこと及び感情が嵩ぶつて激しく戯欷したことは被告人延岡の原審及び当審供述によつても十分裏づけられる。
5 かようにして高木検事は昭和五二年六月二〇日及び同月二一日それぞれの日付の原判示第一(一)1の殺人罪の教唆者は被告人波谷である旨の被告人延岡の供述調書を作成した。
七 被告人延岡の供述内容とその変遷の概要及び他の者の供述との比較
1 川内弘の殺害は中川、首藤、田中と被告人の四名で共謀して実行した。被告人はかねて川内をそれまでの組の抗争関係の経緯から、やくざの風上にも置けぬ男で折あらば殺してやろうと思つていたところ、知合いの中川から殺害の相談があつたので、首藤に応援を求めた。服役が長期になるのを覚悟して田中に内妻I子のことを頼んだら田中はついて来た。田中には旅行目的はつげず福井に遊びに行くとて連れて出た。拳銃は大阪市内天王寺動物園付近でケンちやんという者から買つておいたものを使用した。中川を除く三名で四月九日午後七時ころタクシーで大阪を出発し、敦賀市あたりで自動車を運転してきていた中川と落ち合い四月一〇日夕刻から越前海岸のあらや旅館に二泊し、四月一二日は坂井郡の紫水館に投宿し、紫水館内で田中に川内殺害の企図を明かし、一二日は原判示ハワイが休店であつたので、一三日午後一二時半ごろ紫水館を出てハワイで原判示兇行に及んだ、一三日紫水館にいた時誰かから電話のかかつてきたことはない。所持金は被告人延岡の手持金五〇万円と貸付金の回収金五〇万円の計一〇〇万円を持ち大阪道頓堀の喫茶店に三名集つて出発した。なお中川も拳銃をもつていることが旅館内等でわかつた。(以上は昭和五二年四月一三日から同月二三日までの間に作成された延岡の司法警察員に対する供述調書の記載による。もつともその間にも出発、旅館宿泊日についての供述は多少変化し、四月二〇日付供述調書では、四月八日午後七時ころ中川を除く三名で大阪をタクシーで出て、九日午前零時ころ敦賀で中川と落ち合い同日七時ころ中川の予約しておいた「あらや」に投宿したと述べる。)。
2 中川から殺害の相談を受けたと供述したのは嘘で、中川は今回の事件までは知らなかつた男である。この嘘の筋書は四名で打ち合わせておいたもので実は首藤からの電話で道頓堀橋で会いそこから大阪市南区所在のホテルレインボーに行き、そこで首藤から殺害の相談を受け賛成した。八日午後七時ころ田中を伴つてタクシーで大阪を出た、首藤は敦賀に共進会の若衆が迎えに来ることになつていると言い、敦賀に来ていた中川の運転する自動車で金沢市に向かい、九日午前三時ころ加納一恵方に案内されて一泊した。加納とは挨拶は交したが事件のことは一切話していない、九日昼ごろ加納方では加納の妻の出したすしを食べ、中川に二丁の拳銃の試射を依頼した、中川運転のレンターカーであらや旅館に行つたのはその後である。犯行直前ハワイ店内に川内が所在しているのを確認したのは中川で川内の自動車が店外に駐車してあることで確認した(以上は被告人延岡の昭和五二年四月二八日付及び同月三〇日付司法警察員に対する供述調書並びに同年五月一日付、同月二日付、同月五日付検察官に対する供述調書各謄本による。なお同月三〇日付供述調書では加納一恵とは殺害の話はしてないが、加納も被告人延岡らの殺害企図を当然知つていた筈である旨また川内の自動車が事件当日ハワイ前になかつたとするなら誰かが中川に川内がハワイにいることを教えたのかも知れない旨述べる。)。
3 敦賀に出迎えに来ていたのが中川徳治であると供述したのは嘘である。敦賀にきていたのは加納一恵であつてその運転する自動車で金沢市の同人方に案内された。車内で川内殺害の話も出、首藤と加納は親しそうに話をした。加納方で中川が顔を出しそこで初対面のあいさつを交した。加納には兇器の拳銃の試射を依頼した。
川内がハワイに来店しているかどうかの確認は中川がすると供述したのも嘘であり、川内の所在確認は他の組員がしてそれを四人に連絡してくれることになつている旨加納方で中川から説明があつた。右嘘の供述は連絡係をした者に対し迷惑をかけないようにと配慮したためにした。
その後の中川と加納の連絡状況から加納自身が川内の所在確認の役割を果たしていることがわかつた。一二日昼ごろ海岸にある喫茶店で加納に会いハワイが当日休店らしいとの連絡を受け、田中と中川を行かせて休店である事実を確認した。一三日午後一二時半ごろ電話がかかり、中川が出て、川内がハワイにいる旨の連絡を受けた。
被告人延岡と首藤、田中、中川の四名で逮捕されても加納の名前は出さないようにとの打合をした(以上は昭和五二年五月四日付、同月二六日付、同月二七日司法警察員に対する供述調書、特に五月四日付分による。)。
4 加納一恵とは被告人延岡らが紫水館に投宿している四月一一日午後八時ころ首藤と三名で旅館付近道路上の加納が運転してきた自動車内で会い、川内殺害場所等についての打合をし、加納はハワイ喫茶店前の林の中から川内の来店を見張つている旨述べ、同月一二日加納運転の自動車が先導し、中川運転の自動車に乗車してハワイ店内付近を視察しその後被告人延岡と田中、中川の三名が3記載の喫茶店で時間をつぶした(以上は昭和五二年六月一日付司法警察員に対する供述調書による。)。
5 暴力団員としての生活を断念し眞実を供述する覚悟を決めた。川内殺害は被告人波谷の教唆に基づいて実行した。
四月一日昼時分I子の取次により被告人波谷からの電話連絡を受け午後七時ころ同被告人方応接間(応接間は玄関を入ると右手にあり、玄関左手には組事務所がある。)に入り、応接セットに座つていた被告人波谷から「死んでくれへんか、川内をやつてくれんか」といわれ、自身の年齢のことも考えて極度の衝撃を受けたが、親分の命令を拒否することはやくざとして絶対的に許されず、引き受けたところ、もう一人誰かつけるがお前がリーダーとなつてやつてくれと言われた。
殺害に失敗すれば自分が殺されることも十分考えられ、成功しても長期の服役は避けられず、人生も終りだとやけな気持になり、最初一人だけで、次いで妻を連れ、また友人三人も連れそれまで糖尿病と肝臓病のため慎んでいた酒を飲んだ。
四月四日夕刻首藤からの電話連絡によつて道頓堀橋で同人と落ち合い、レインボーホテルに行き、殺害の計画を話し合い、被告人延岡が道具のことは親分である被告人波谷と相談する旨話した。同ホテルを出るとき首藤はよろしくお願しますといいつつ落涙し、被告人延岡が手を握つて元気づけてやつた。
四月五日昼ころ被告人波谷方に赴きまだ就床中であつた同被告人を起こして前記応接間で拳銃二丁の手配方を依頼した。右二丁は元来は被告人延岡用とそれまでに同被告人から離れなくなつてしまつた田中の分と考えていた。
右依頼後一旦帰宅して暫時待機するうち被告人波谷からの電話連絡を受け、再び同応接間に赴いて拳銃二丁と帯封のある一万円札一〇〇札二束を受けとり八日に出発する旨述べて二分か三分程度で退去し、帰宅後首藤に架電して八日に出発することの相談をした。
四月五日被告人波谷方に拳銃の手配依頼に赴いたときには同組事務所の電話番をしていた若い者で名前は記憶にない人物に親分はどうしているか尋ね、寝ていると聞き自分で寝室に行つて親分を起こしてから応接間で待つた。その他のときは被告人波谷方の勝手を知つているので誰の案内も受けずに応接間に入つた(以上は昭和五二年六月二〇日付、同月二一日付検察官に対する供述調書による。)。
6 前記5の供述の信用性に疑問がないかを検討のため右と昭和五二年五月一六日付司法警察員に対する供述調書の記載内容との比照をしてみると右司法警察員調書では四月一日被告人波谷から電話がかかつてきたのは午後七時過ぎで、組事務所に着いたのが午後八時ころ、被告人波谷は組事務所で待つていて応接間に通した、被告人延岡に川内殺害の教唆をする前に同被告人の健康状態を尋ねた、首藤からの連絡でレインボーで会見した後四月四日か五日ころ被告人波谷方に行く前に昼すぎころ電話で連絡した後訪問したら既に事務所で待つていた同被告人は既に用意してあつた拳銃二丁と一〇〇万円札束二束を交付したとの供述が記載されている点に主要な差異があり、また右司法警察員調書中には「くれへんか」というような関西訛の用語法は一切使用されていない。
7 被告人延岡は接見交通禁止の裁判が解除された後昭和五二年九月一四日検察官に対し従来嘘をついていた点があるので、再度の取調をしてもらいたい旨の上申書を提出し、同月一八日と一九日の検察官高木康次の取調に対し被告人波谷から教唆を受けたと供述した点が嘘であつて、首藤からの電話連絡により道頓堀橋で会い、そこからレインボーホテルに行つて川内殺害の共謀をしたうえで本件を敢行したもので、被告人延岡を頼りにしていた首藤の申出を断り切れなかつた、拳銃は前からケンちゃんから買つて持つていたものを使い、所持金二〇〇万円は被告人延岡が賭博で儲けたものである旨述べほぼ前2に摘記したのと同一の事情を説明する立場に戻つた。
但し被告人延岡は教唆者が被告人波谷であると嘘をついたのと被告人延岡とI子とが接見禁止中接見を許されたこととの間にはなんの関係もなく、右嘘は堂山の取調が厳しくて堪えられなかつたからである旨述べる。
8 原審公判廷においては被告人延岡(但し被告人波谷と分離されていたため証人として供述)はほぼ前記7の供述と同旨の事情を述べ、捜査官に対し教唆者が被告人波谷であると嘘をいつたこととI子との接見禁止中の会見とは関係がないともまた関係があるとも述べる。
9 被告人延岡は当審においては更に供述内容を一転させ、川内殺害の教唆を受け原判決第一(一)(1)の犯行に及んだのは事実であるが、教唆者は被告人波谷ではなく、やくざの義理でどうしてもその依頼を拒否できない「Aさん」と称する人物であり、実名は供述できず、また人相、体格についても供述できないが乙野次郎ではなく、その教唆を受けた場所は大阪市西成区の店名の供述はできない喫茶店、日時は三月二四日か二五日ころで、それを引受ける旨返答をしたのが四月一日ころである、乙野次郎の組事務所は西成区にある、旨述べ、被告人波谷の実名を出したのはI子と接見禁止中に面接させてもらつたこともあるし、また堂山警部補の取調があまりに執拗で堪えられないので、出たら目に親分の名を出しておけば堂山の追及を免れることができるし、調べればそれが嘘だということはすぐわかるから親分にも迷惑をかけることはないと考えて被告人波谷の名前を出したのである旨その理由を説明する。
10 以上の被告人延岡の供述と首藤新司、田中政治及び中川徳治の供述とを比照してみるに、首藤らは同人らに対する公訴の提起前においてはそれぞれの者の関与している範囲内の事実につき前記1の被告人延岡供述とほぼ一致する供述(但し加納一恵方に行つた事実を認める。)をしていたが、(但し首藤新司は昭和五二年五月四日付検察官に対する供述調書抄本中で川内殺害に関して実行行為を担当した四名以外にも加担者があることを強く示唆し実行者四名以外の者に迷惑をかけたくないので、良くないとは思つたが、ある人とか某所とか述べてきた旨供述する。)、自らの公訴事実に対する有罪判決の確定後原審証人として出廷した右首藤は、レインボーホテルで被告人延岡と川内殺害の謀議をした際同被告人からこの話は俺の方から誘つたことにして口裏を合わすのだと固く言い含められたので、作りあげた内容に従つた供述を繰り返し、捜査官から同被告人の供述内容が変化した旨告げられて更に追及を受けてもそれは捜査官が延岡供述が変つた旨嘘をついて首藤を罠にはめ、真実を述べさせようとしているのではないかと疑つて一貫して当初に作り上げた筋書に従つた供述を繰り返してきたが、福井地方裁判所で被告人延岡とともに事件の審理を受け、そこで同被告人が真実を供述したので首藤としても真実を述べた旨供述する。
11 多田昭二(株式会社トヨタレンタリース石川課長代理)、荒川達弥(前記あらや旅館の経営者)、早藤妙子(前記紫水館従業員)、中谷美恵子(同)の司法警察員に対する供述調書各謄本(早藤の分は二通)及び右早藤の検察官に対する供述調書謄本によれば前記中川が昭和五二年四月九日午後四時ころ金沢市神田一丁目所在株式会社トヨタレンタリース石川に赴いてトヨタスプリンター自動車を翌一〇日までとの約で借り受け、同日電話で福井にいるが仕事が長びくので二日程延長してほしいとて借受期間を同月一二日まで延長することを申込みその旨承諾を得、更に同日年前八時ころ再び電話で何度もで悪いが借受期間を一六日まで延長してほしい旨申し入れ、その承諾を得、同月九日午後二時ころ中川があらや旅館に当日の宿泊を申し込んだうえ同日八時すぎ同旅館に被告人延岡、首藤、田中、中川の四名が来て投宿し、翌一〇日も宿泊し、一一日午後五時ころ宿泊費を清算して同旅館を立ち出で、同日午後六時ころ前記紫水館に投宿し、翌一二日午前八時ころ一旦料金を清算して退去したが、同日昼ごろ遊びに行つたが体の具合が悪くなつたからとて立ち帰り、同日更に一泊し翌一三日午後一二時すぎころ被告人延岡らが投宿していたすいせんの間に外部から電話があり、その直後同日午後一二時四〇分ころに被告人延岡ら四名が相当慌てた様子で宿泊代金五万円を支払い、釣銭一、四三四円は世話になつたからとて宿泊費請求、領収書とも受けとらずに立ち去つた事実が確認される。
12 前記10・11に摘記した事情と前記延岡供述とを比照するに川内殺害事件の背景事情についての虚構の筋書を申し合わせた日時、場所及び申合者の範囲においては供述者間にかなりの相違点が認められるものの、捏造された筋書内容自体は同一で、「『中川徳治から被告人延岡に川内殺害の相談があり、同被告人がこれを受けて首藤に連絡し』レインボーホテルで川内殺害の謀議をした」旨、の事実中『 』部分が虚偽であることは確実であつて、しかも川内殺害の実行者が四名とも(但し被告人延岡は当初のみ、首藤も自身の公判期日の途中から供述を一部変更)右虚偽事実を前提とした供述を一致して、しているところから右筋書に従つて口裏を合わせるとの固い申し合わせが右四名間にあつたことも確実といえ、しかも右申し合わせは右実行正犯者四名のほかの川内殺害事件関与者に対し刑責の累を及ぼさないようとの配慮からなされたものであることも十分認定でき、更にそのうえ被告人延岡の供述内容の変更はその変更の都度より多くの真実を含むものになつて行く傾向にあることを優に看取することができ加納一恵が川内殺害に深く関与した旨の供述も優に信用を措くに足りるものといえる。
八 被告人波谷の供述内容の要旨とその変遷並にこれに関連する事情
1 被告人波谷は、逮捕後自分の経歴、前科、菅谷組、波谷組、川内組の組織や相互の関係、被告人延岡や首藤新司との関係(中川と田中のことは知らないと述べる。)、被告人延岡に用事があるときは電話で連絡するのが常であること、被告人延岡は組事務所の当番でくることもあるし、別に何も用事もないのに子が親のところに顔を出すようにくることもある等の事情を供述し、事件については昭和五二年四月一日に何かの用事で被告人延岡に電話をかけたことがあるかどうかは記憶がないが、いずれにしても川内の殺害を被告人延岡に教唆したり、又拳銃や実包、更には札束で計二〇〇万円を同被告人に交付したりしたことは全くなく、被告人延岡がなんで自分を川内殺害の教唆者であると供述したのかあつけにとられている、被告人波谷は昭和五二年四月一一日から同月一五日まで上京し、同月一四日東京から波谷組事務所に電話した際はじめて川内殺害事件の発生を聞き知つた旨捜査官に供述し(昭和五二年九月一日付、同月八日付司法警察員に対する供述調書、同月二〇日付、同月二一日付、検察官に対する供述調書)、原審公判廷においても、ほぼ同旨の事情を供述する。
2 当審において被告人波谷は大綱において前同旨の説明に加え、関係者に調査してもらつて明らかになつた事情を原判決後聞き知らされて判然と想起したものであるとして、昭和五二年三月三一日から同年四月一日にかけての自身の行動につき、次のとおりの事情を供述する。すなわち
被告人波谷は三月三一日丙野三郎とともに東京から大阪に帰り、大阪市内上本町に所在する韓国料理店新羅会館に赴いた後親しい関係にあつた女性A子とホテル・ニューオオタニに投宿し、翌四月一日は午後三時過ぎにようやく起床して、当日A子の友人であるB子が大阪市南区でスナック店「H」を新規開店するので、祝品にするため二〇万円か三〇万円程度の品物を探がそうと開店祝の贈答品を物色して心斎橋筋をA子とともに歩き、当時としては店名を意識していなかつたが心斎橋筋をなにしたら右側の店名をローマ字で表示してある店で階段を少し降りて奥行が深い感じの店で、A子の見立てによりオウム鳥石像を買い求め、価額は記憶にないが代金は被告人波谷が支払い、従業員による配送のサービス方の申出にその必要はないからとて断り、包装をして紐をかけてもらい、被告人波谷が自らこれを持ち運び、重いので途中からA子にも手伝い持たせて二人掛で「H」まで運搬し、既に薄暗くネオン灯等はすべて点灯されている時間に「H」について開店後第一番に入店した客として原判決罪となるべき事実第二(一)の判示の教唆時刻ころは同店内で飲食遊興していて波谷組事務所もある被告人波谷方にはいなかつた旨述べている。また、当審証人B子(一、二回)及び同A子はあるいは「H」開店当日の店主として、又は被告人波谷に同行してオウム石像を「H」に運搬し、開業日当日臨時のホステスとして同店の応援をした者として被告人波谷の右供述とほとんど完全に一致する趣旨の供述をし、「H」の昭和五二年度「売上帳」の四月一日分の記帳には「波谷」が七万円余の飲食をした旨の記帳がその冒頭にされており、更に四月一日の「H」の客であつた当審証人尾崎純生の供述から同日A子が開店した「H」のホステスとして稼働していたことは確実と認められる。
3 しかしながら当審証人木村朝生、同丁野四郎の各供述に「R」北店売上ノート等関係商業帳簿類の記載をも併せて検討してみれば、「H」店内に開業日当日ころから置かれているオウム石像は東京都港区浜松町所在の三協貿易株式会社が昭和四八年度中にイタリヤから輸入し、昭和五一年九月一〇日大阪市南区心斎橋所在の株式会社Rに販売し、同株式会社には心斎橋筋に本店(心斎橋二丁目三一番地所在)店舗と北店と称している本店の北方約一〇〇メートルの場所に所在する店舗とがあり、本店は心斎権筋を南進した場合道路右側に、北店は左側にあるが、その北店一階売場において昭和五二年三月三一日午後五時ころ代金五万八、〇〇〇円で売り上げ、右北店は道路から入つて階段を少し昇つた場所が一階になつており、本店はこれと逆に階段を少し降りた場所が一階となつている構造であることは確実不動の事実として認めることができ、またスナック店「H」では昭和五二年度「売上帳」のみは、昭和五五年に至るまで保存してあるものの、右売上の都度作成する伝票を整理して記帳するものであり、しかもその伝票枚数も一年度分を合計しても保在上不便がある程の量には到底達しないと断ずることができるのに、右伝票類はすべて廃棄してしまつてあり、売上帳に対応する仕入帳や、賃金等経費の記入資料は廃棄したか又は当初から全然記帳していないものと認められる。
おおよそ以上の事実を認定できる。
控訴趣意第一点について
1 起訴後においては被告人の当事者たる地位にかんがみ、捜査官が当該公訴事実について被告人を取り調べることはなるべく避けなければならないことは最高裁判所昭和三六年一一月二一日第三小法廷決定(最高裁判所刑事判例集一五巻一〇号一七六四頁)の示すところであるが、前記事実認定一乃至五に認定した各事情のうち被告人延岡に対する本件公訴提起当時捜査官に概略は認識されていたやくざ組織とその対立抗争関係、被告人延岡ら原判示第一の各犯行の実行正犯者らの組織上の地位や相互関係、右各犯行の罪質、態様を総合して勘案すれば、被告人延岡並びに首藤、田中、中川が独自の認識、決断に基づいて右各犯行を実行をしたとする供述内容の真実性には著しい疑問がもたれ、むしろ右四名以外のやくざ組織上の地位上位者によつて川内弘殺害が企図され、この企図、それによる教唆に基づいて組織上下位の立場にある右四名において川内殺害等の各犯罪を実行したのではないかと疑うのは当然のことであつて、右の背後事情について起訴後被告人の地位に立つに至つた被告人延岡に対し供述を求めてこれを取り調べることは同被告人に対する公訴事実の背後事情、犯行に至る経緯についての捜査をするという性格を一面において帯有することはいうまでもないが、それよりもむしろ右背後で川内殺害を企図した者を割り出し、これに対する刑責を追及するための捜査である性格を遥かに強く帯びている事情を否定し得ず、しかも右背後事情の捜査のためには被告人延岡、首藤新司、中川、又は田中から供述を得てゆく以外に適切な方法は見当たらず、そのうえ被告人延岡の心情が動揺してその経験した背後事情を供述するかも知れない蓋然的希望が相当あつたのであるから、被告人延岡を起訴後認定のとおり昭和五二年六月二一日に至るまで取り調べたからといつて、それが右のとおりまことにやむを得ない事情によるものである以上前示最高裁判所決定の示す法理上許されないものであるなどとはいえず、ましてかくして得た被告人延岡の供述を記載した供述調書が、第三者である被告人波谷に対する公訴事実証明のための証拠として許容されないなどとは到底いえない。
2 勾留されている被告人(または被疑者、以下同じ)に対する接見交通禁止の裁判は被告人に逃亡し又は罪証を隠滅すると疑うに足りる相当の理由がある場合、これを防止するため、普通なら当然認められている第三者(弁護人又は弁護人となろうとする者を除くことは勿論以下同じ)との接見交通等を禁止する裁判であつて、これが当該被告人にとつて不利益な裁判であることは勿論であり、またその一部解除等の裁判を得ないで検察官、司法警察員等の捜査機関が被告人と第三者とを接見交通等せしめることは少くとも公訴の提起後には許されないこともいうまでもなく、前記事実認定五、六項に認定した司法警察員堂山警部補による被告人延岡とI子との面接許容は右の一般的意味での違法性を備える以上に他警察官の勤務時間終了後に取調室で同警部補のみの立会下に内縁関係の夫婦(五月九日の段階では夫婦)を面接せしめる点で、また認定の同警部補のI子との会見も同警部補が単身旅館や喫茶店で事件関係の女性と会見するという点で種々の疑惑を招きかねない軽率な所為であるとの譏を免れず、しかも、被告人延岡が多分はI子を瞥見程度はしたものと認められ、堂山警部補により六〇万円の所持金をI子に届けてもらうという便を計つてもらつた四月二八日に加納一恵が川内殺害に関係している事情の一端を明らかにし始め、I子と面接し婚姻、入籍の相談をしたと考えられる五月九日、気持を整理するからと一週間の余裕を求め、同月一六日教唆者が波谷である事情を供述した事実に徴すれば、被告人延岡の原審・当審における供述内容がどうであれI子との面接と川内殺害の背後事情を供述しようと思つた心理過程間にある程度の関連のあることはほぼ確実であると評すべきである。
しかしながら堂山警部補の独断でなされた被告人延岡とI子との面接は、認定のとおりの内容のものである限り認定の裁判所の接見交通禁止の裁判によつて奪われ、それがなければ被告人延岡に当然認められているI子と面接する利益を違法に同人に与えたもので同被告人に認められる重要な権利をなんらかの意味で侵害したものとは考えられないし、また刑期のことを気にする同被告人に対し真実を供述すれば裁判の刑も軽くなる旨述べて供述を説得したからとて、それは一般的にあり得る利益の説明をして真実を供述しようとする心機に傾くよう説得する程度のものにとどまるものと認められ、司法警察員堂山警部補が裁量的に行使し得る権限を不当に行使して同被告人に法外な利益を与える旨約束したり、又はそのような利益を与える権限があるかのように偽り欺いて誘導的に供述を求めたりしたものとも解せられないからその取調過程に認定のとおりの堂山警部補による違法な接見許容行為等があつたからといつて、その取調の結果得られた被告人延岡の司法警察員に対する五月一六日付供述調書が、同被告人の関係においても違法収集証拠としてその証拠能力を否定されるいわれはなく、ましてこれが被告人延岡以外の者との関係でも絶対的に証拠能力を否定されるべきものであるなどとは到底いえず(なお、堂山警部補は接見禁止中に被告人延岡と田中政治との電話通信をも許したがそれは同被告人がその教唆者が被告人波谷である事情を供述してからかなり後の五月二三日のことと認められるので前記五月一六日付被告人延岡の供述調書の証拠能力を判断するについて関係がないと考えられ、また右被告人延岡の五月一六日付司法警察員調書は被告人波谷及びその弁護人の証拠とすることについての同意がない結果同被告人の関係においては犯罪事実認定の用には供し得ないことになるが、それは勿論別個の問題である。)、所論被告人延岡の検察官調書二通にそのまま引き継がれ、その証拠能力を否定する結果をもたらすような違法性も認めるに由ないものというべきで原判決には結論において訴訟手続の法令違背がなかつたことに帰する。
3・4 前記事実認定の項五乃至七項に認定した各事実に照らして検討すれば司法警察員堂山衛が被告人延岡に対し強制、拷問若しくは脅迫を加えたり、これに準ずるような執拗極まりない方法で取調をしたり、又は違法な便宜、利益を与えてこれを不当に誘導して川内殺害の教唆者名を供述せしめたような事情は認められず、従つて前記五月一六日付同被告人の司法警察員に対する供述調書の記載、ひいて所論二通の同被告人の検察官に対する供述調書の記載にも任意性を欠くとの疑を容れる余地はなく、また所論二通の検察官調書について所論のように右堂山警部補及び高木検事の取調方法が不当であつたり、その内容が粗雑であつたりするため直ちに刑事訴訟法三二一条一項二号のいわゆる特信状況に欠けるなどとはいえないことは明らかであつて、右特信状況欠如の主張は所論二通の検察官調書の信用性を云々して事実の誤認を主張するものにほかならず、畢竟控訴趣意第二点と同一の主張をすることに帰する。論旨は理由がない。
控訴趣意第二点について
1 前記事実認定一乃至四項に認定した各事実に照らして勘案すれば昭和五二年四月一日から同月七日ころまでの被告人延岡の行動は、独自の見地から冷静に検討して自らが中心的指導者の立場に立つて川内弘の殺害を企図するに至つた者の及んだ振舞であるとは到底解釈できず、齢四十を過ぎて体調も聊かながら贏衰の兆を見せ、愛妻を抱えて身をいとい、やくざ渡世人とはいえ、それなりの将来の生活の平安を庶幾していた者が、突然拒否しようとして敵わない圧倒的指示力を有する上位者からも望まない川内殺害を指令され、事の成否に拘らず、場合によつては一命を失い、うまく行つても相当長期の服役を避けられない窺境に追いつめられて衝撃を受け、瞋嘆の情動心中こもごも鬱勃してよく抑えるに由なくなり、あるいは酔乱に身を委ね、又は色楽に沈淪して僅に須臾を慰め、また長い旅に出るとか、妻のことを頼むとか秘密の大事を前にした者として口外すべからざることを口外し、更に共謀者首藤とは結手して涕泣し、もう一〇年程若くさえあればこれ程の苦しみはなかつたろうにと嘆じた一連の態度として始めて了解可能であり(被告人延岡も原審公判廷では一旦否定したものの、当審においてはその兇行がやくざの義理の上から到底拒否し切れない者の教唆によつて実行されたものであること自体は認める。)、その際の逸楽の伴侶としては内妻I子や、被告人延岡を慕つてあくまでもこれと行動をともにしてきた田中政治の例に見られるように、右の激烈極まりない衝撃を被告人延岡に与えた当該本人や又はこれと密接な関係を有する者以外の者で同被告人が愛惜の情を措く者を選定するのがむしろ自然の人情であることも優に推認できる。
2 前認定の被告人延岡の心情事実を前提とし、前記事実認定五乃至七項に認定した各事実を総合して検討するに、川内殺害等の犯行をすべて被告人延岡、及び首藤、田中、中川の四名のみの所為に基づくものとの架空の背景事情事実を捏造して、右四名以外の事件関係者に訴追の累を及ぼさないようにするため右捏造した筋書に従つた供述をすることを固く申し合わせた被告人延岡は、逮捕、勾留された後当初は自己の刑責は直ちに認め、その背景事情については右捏造した筋書に従つた供述をしていたが、事件前に受けた激烈な衝撃による精神の動揺は易くはおさまらず、それまで渡世稼業一本で通してきた過去の生活の愚を後悔し、これに接見禁止中に再度又は再三にわたつて面接を許されたI子に対する愛情や、寛厚な堂山警部補の取調態度に対する感謝の念、更にはこれからなお衰退の度を加えると予想される身心をもつて立ち向かわねばならない長期の服役や、出所後の生活に対する不安感が複雑に絡み合つて、終にはやくざ生活を断念することを決意し、その間川内殺害事件の背景事実の実相を供述したいとの衝動を押えきれず、ここに逐次前供述の捏造部分や秘匿部分を明らかにして供述内容を変えていつた事情を十分に推認することができ、しかもその供述内容の変更は新事情の説明が加わるに従いその内容自体が原判示第一の犯行の罪質、態様に照らし、より自然で合理性の強いものに発展してゆくことが明らかであるのみならず、被告人延岡とともに原審で相当部分の併合審理を受けた首藤新司、田中政治、中川徳治のうち誰も右変更された供述内容が真相に合しないことを明らかに且つ合理的に主張した者はなく、原審証人首藤新司が前認定のとおり延岡供述の一部変更部分が真実であることを認め、右認めた理由も前記事実認定七項10に認定したとおり、捏造した筋書に従つた背景事情の供述を捜査官の追及に抗して一貫して主張、供述してきた首藤が公判廷の審理過程においてそれまで同人と同じ捏造事情の供述をしているものとばかり思つていた被告人延岡が真実を述べてしまつていたことを確認できたので首藤としても供述を変更して真実の一端を述べた旨供述している事情や被告人延岡の変更された供述部分が自動車レンター会社や宿泊旅館の従業員の供述ともよく一致していることを併せ考えれば、被告人延岡の供述がその変更の度ごとにより正しい真相に近づいてゆく傾向を有していることを十分看取できる。
3 前叙被告人延岡の供述の変動過程に認められる漸時的真実性への傾斜傾向にも照らして検討するに、川内殺害等の実行正犯者四名以外には刑責の累を及ぼさないようにするため捏造した背景事情の筋書を捜査官に供述すべきことを固く申し合わせ、従つて一旦背後にある関係人物であるとしてその名を供述すれば、その内容の真否如何にかかわらず、被表白者に対して厳格な捜査の手がのびることは必至である事情を十分認識していた筈の被告人延岡が、司法警察員堂山衛に対し真実を述べるからとて一週間の猶予期間を求め渡世人稼業から足を洗うことまで決意して熟慮の挙句、認定の堂山警部補の取調が執拗で堪えきれなくなり、いい加減な嘘をついておけば後ですぐ供述の虚偽性が証明されるからという軽い気持で被告人波谷が川内殺害の教唆者であると供述したとか、高木検事の認定の取調に際し心中を去来する悲哀事の想起に慟哭しつつ、千載の長恨の源となつた川内殺害の教唆者の実名をさし置き、一時はその勘気をこおむつたとはいえ、後に許されて渡世人として義理も恩も受け、何にも代えてその命に従い、その利益を守り立てねばならぬ親分の波谷組組長被告人波谷の名を虚に述べたかなどと認めることは到底できず、結局被告人延岡の検察官に対する所論昭和五二年六月二〇日付、同月二一日付供述調書の記載はその大綱において十分措信できるものと認められ、右記載内容が細緻にわたつていないとか、被告人波谷方に入る際の仕方が来宅者の警戒、確認を入る前にしている通常の仕方に合わないとか、拳銃の受渡時刻や態様が被告人延岡の同年五月一六日付司法警察員に対する供述調書の記載と喰い違うとかいう点は右信用性に疑問を挾ませる程の重要な意味を有するものとも見えない。
4 もつとも原審証人I子は昭和五二年四月一日親分の被告人波谷から被告人延岡に呼出電話がかかり右I子がこれを被告人延岡につないだようなことはない旨供述するが同女は他面同年九月一日付司法警察員に対する供述調書中では原審証言と全く相反し、四月一日親分の被告人波谷から被告人延岡に連絡電話がかかり、この電話は一旦I子が受けてそれを被告人延岡に取り次ぎ、この日を境にして同被告人の態度が一変した旨述べるので右I子の原審供述を俄に信用することはできず、また四月一日夕刻心斎橋R店でオウム鳥石像を購入してそのまま直ちにこれをスナック「H」にまで運搬し、そこで被告人波谷は同店開店第一番の客として飲食をした旨の当審証人A子及び被告人波谷の当審供述及びこれと大部分符節を同じくする当審証人B子の供述並びにスナック「H」の昭和五二年度売上帳の四月一日分の記載のうちオウム石像の四月一日夕刻の購入と購入した後そのままこれを同スナック店に運搬して寄贈し、更にそれに引き続いて同店の一番客として飲食していたアリバイがあるとの点については、右オウム石像をイタリヤ国から輸入した貿易商である当審証人木村朝生及びこれを更に小売した心斎橋R店営業部長である当審証人丁野四郎の各供述及び同店の売上記録から明らかに事実と異つていること、すなわち、心斎橋R北店で同石像を販売したのは三月三一日午後五時ころである事実が確認できるし、またスナック「H」の売上帳はこれと帳簿組織上関連を有する現金出納帳や売掛帳その他右売上帳の記載資料となつた筈の伝票類との照合突合せ等によつてその記載の正確性を確認するに由ないもので、直ちに右のB子、A子及び被告人波谷の各供述を裏付け、同被告人のアリバイを証明する資料とはなし難いものと断ずることができ、結局以上いずれの証拠も所論二通の被告人延岡の検察官に対する供述調書の記載の信用性に合理的疑を挾む根拠資料とはなし得ないものというべきである。
5 被告人波谷が被告人延岡に川内殺害教唆を企図した動機については被告人波谷自身による詳細で合理性のある供述を得られない以上、確実な事実を知るに由ないことは当然であつて、前記事実認定一乃至三項に認定した事実を総合すれば同被告人に川内弘殺人教唆の合理的動機が優にあり得たことは認められる。
以上に認定、説示した諸事情に徴し検討すれば、原判決挙示の関係各証拠により被告人波谷に関し原判示第二の犯罪事実を認定した原判決には所論のような事実誤認は認められない。論旨は理由がない。
被告人延岡朝夫の弁護人松浦陞次、同岩淵正明の控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反)及び第二点(事実誤認)について<以下、省略>
弁護人河村澄夫、同泉政憲、同菊池利光、同原田香留夫、同西嶋勝彦、同後藤昌次郎、同角田由紀子、同佐々木静子、同島崎正幸、同渡邊俶治の上告趣意
第一点 憲法違反(刑訴法四〇五条一号)
一 原判決には、「疑わしきは被告人の利益に」との原則に違背し、ひいて憲法三一条に違反した瑕疵がある。
「疑わしきは被告人の利益に」という原則は刑事裁判における鉄則である(例えば、最高裁昭和四八年一二月一三日第一小法廷判決・判例時報七二五号一〇四頁、最高裁昭和五二年三月一七日第一小法廷判決・判例時報八五〇号一〇九頁)。この原則は直接的には刑訴法一条・三一七条・三一八条、刑訴規則一条から導き出されるものではあるけれども、もともと現行刑事手続の全体を覆う基本原則であつて、刑訴法・同規則の全条項を解釈し運用するうえで根本精神を表現するものである。従つて、この原則に対する違背は、単なる法令違反(刑訴法四一一条一号)にとどまるものではなく、法の適正手続を保障する憲法三一条の違反となるものと思料する。
ところで、本件において有罪認定の資料となる証拠は、唯一つ、延岡朝夫(以下単に延岡という)の昭和五二年六月二〇日付及び同月二一日付各検面供述のみである。しかも、この延岡の検面供述は、後述のとおりその証拠能力が否定されるべきであるのみならず、その信用性についても、第二点において詳述するとおり、それ自体の検討によつても、また、他の証拠との対比によつても、多大に疑問が存するのである。さらに、本件については、これも第二点において詳述するとおり、被告人にはアリバイが存することは明白である。然るに、原判決は、右延岡の検面供述につき、不当にも証拠能力を認めたばかりではなく、その信用性をも過信し、その結果被告人によるアリバイの主張を安易に排斥して有罪の認定をしたのであつて、それはまさに証拠の適正な価値判断の責務を放棄し、すべての証拠をひたすら被告人の不利益に評価し、本件について存する合理的疑いはあえて目をつぶり、強引に有罪の判断へと突進したものというべく、明らかにそこには「疑わしきは被告人の利益に」との原則に対する背馳がみられる。
従つて、原判決は事実判断の過程において憲法三一条に違反したものといわざるをえず、破棄を免れないものと信ずる。
二 原判決は、捜査機関が違法な手段によつて取得した証拠を以て事実判断の資料としたものであり、この点において憲法三一条に違反する。
(一) 本件は、延岡の検察官検事高木康次に対する昭和五二年六月二九日付及び同月二一日付各供述調書以外には、被告人の罪責を肯認させる証拠が全くない事案である。
ところが、まず、右各検面調書はいずれも延岡について公訴提起がなされた後に当該公訴事実自体に関連する事項(いわゆる背後事情)についての取調の結果得られた延岡の供述を録取したものである。
しかし、起訴後の「被告人」について捜査官がこれを取調べることを許容した規定は刑訴法上全く見当らない。刑訴法一九八条は明らかに起訴前の「被疑者」についてのみ適用があり、既に当事者としての地位を保障された被告人には適用がない。すなわち、被告人は、被疑者とは異り、刑事訴訟における一方の当事者として公開裁判において包括的黙秘権及び反対証拠の吟味権が保障され、必ず弁護人の援助を受けることができるものとされている。これらは被告人の最も基本的な訴訟法上の権利である。被告人に対する捜査官の取調はこれらの保障を受けえない状況のもとで行われるものであるから、単に刑訴法の規定に基づかないから違法であるというにとどまらず、違憲でもある。当該被告人である延岡に対する関係では憲法三七条一項ないし三項、三八条一項に違反するし(田宮裕「起訴後の取調」捜査法大系I二六二頁)、これによつて得られた延岡供述はなんびとに対する関係においても証拠とすることは許されないのであつて、被告人波谷に対する関係でこれを事実判断の資料に供した原判決は適正手続の保障を定めた憲法三一条に違反する。
もつとも、最高裁昭和三六年一一月二一日第三小法廷決定・刑集一五巻一〇号一七六四頁は、「起訴後においては被告人の当事者たる地位にかんがみ、捜査官や当該公訴事実について被告人を取り調べることはなるべく避けなければならないが、これによつて直ちにその取調を違法とし、その取調の上作成された供述調書の証拠能力を否定すべきではない。」といつて、起訴後第一回公判期日前の取調によつて作成された検面調書について証拠能力を肯定している。しかし、右最高裁決定にいう「なるべく避けなければならない」というのは、単なる訓示的表現ではなく、刑事裁判上の常識においておのずから許容される限度を予想し、これを越えるものについては違法違憲とする趣旨を含むものと解すべきである。これを本件についてみると、起訴後実に四七日目にして、しかも、後記のとおり接見禁止のもとで連日長時間にわたる取調の結果得られたものである。その間、裁判所からの六月上旬に第一回公判期日を指定したい旨の意向打診に対し、検察官において「都合が悪い。」といつて拒否するなど第一回公判期日前の期間の延伸を図る措置さえ執られたのである。してみると、右二通の検面調書は明らかに右の最高裁決定の予定する許容限度を逸脱し証拠能力を認めるに由ないものというべきである。
(なお、参考までに述べると、福井警察署長の昭和五五年三月二六日付回答書二通及び鯖江警察署長の同年四月四日付回答書・原審弁護人請求番号一〇五、一〇六及び一〇八によれば、実行者首藤、中川、田中についてもその背後関係について起訴後第一回公判期日まで連日取調がなされているが、各日の取調時間は延岡の場合に比し相当短かい。なお、首藤新司の作成の昭和五六年一一月二日付上申書三頁?七頁・新資料第三号の四参照。)
(二) 延岡の右検面調書二通に録取されている延岡供述は、これに先立つて行われた延岡に対する司法警察員警部補堂山衛の取調において堂山警部補が延岡に対して加えた。
① 直接強制、すなわち、長時間にわたり、かつ、殆ど連日長時間に及ぶ取調による自供の強制
② 心理強制、すなわち、接見禁止中の延岡と妻延岡I子(ただし、昭和五二年五月二三日までは内縁の妻。以下単にI子ともいう)とを接見させるなど、種々の便宜、利益を与え又は約束することによる自供の強制の影響下にある延岡から引き出されたものであつて、延岡に対する関係では憲法三八条二項により証拠とすることができないのみならず、他のなんびとの関係においてもこれを証拠とすることは許されないのであり(違法収集証拠として証拠禁止)、従つて、これを証拠として罪証の用に供した原判決は適正手続の保障を定めた憲法三一条に違反するものである。
項を改めて順次説明する。
(三) まず前提的な事項として、堂山警部補が延岡から被告人の教唆の事実についての供述を初めて獲得した時期がいつであつたかを考えてみたい。
被告人が教唆者である旨の延岡供述が録取されている警面調書は昭和五二年五月一六日付のもの一通(録取者堂山警部補)である。しかし、右調書が右日付の日に作成されたとするには、第一審判決(一五丁表)がいうように、「疑問が残る」のである。要するに右調書の日付の日である五月一六日に当該延岡供述が得られ直ちにこれを録取したという堂山の第一審証言には信用性はなく、むしろ延岡の第一審公判で、高木検事に対し初めて被告人について述べた日である六月二〇日の「一日か二日前」又は「二、三日前」と供述するように、右六月二〇日に極めて接着した日、特に後記のように六月一八日であると考えるのが相当と思われる。
ところが、原判決は(二〇丁、裏)は、
「延岡は公訴を提起された直後の昭和五二年五月六日ごろからその犯行は絶対に名前を出せない何人かの教唆によるものである旨供述し、同月九日に至り、刑を長く勤めた後また極道生活ができるとも思えぬし、堂山の説得も理解できるから一週間考えさせてほしい、背後事情を供述した場合I子の身の安全は大丈夫であろうかなどと述べ、同月一六日堂山警部補の取調に対し、『自分はやくざをやめる決心をした。チャカ(拳銃)は親分(被告人波谷)にもらつた。親分から電話で呼び出され、殺人の数唆を受けた』旨供述し、堂山警部補は右供述内容を調書に作成した(なお、被告人延岡は同年四月二八日後記加納一恵の名前を出すに際しても三日程考えさせてくれと言い、熱慮の末に供述した。)」
という右原判断は、カッコ内の加納一恵に関する部分を含め、すべて堂山の第一審証言に拠つたものである。しかも、この堂山証言とこれに符節を合わせようとした後記高木検事の証言以外にこれを裏付ける証拠も情況的事実も全くないのである。「五月六日ごろからその犯行は絶対に名前を出せない何人かの教唆によるものである旨供述し」というが、そのような供述を録取した警面調書は全くないのである。五月九日に「一週間考えさせてほしい」と言つたとか、加納の名前を出すときも「三日程考えさせてくれ」などと言つたという堂山証言にそう資料は全くないのみならず、当時の捜査官による取調状況に徴すれば、次段で述べるように、むしろそのような事実のなかつたことをうかがわせるのである。また、被告人の名前を出すことを決意した動機として延岡が述べたという、出所後やくざ生活から足を洗うつもりになつたからとの供述もデタラメであることは第二点の二の(五)に述べるとおりである。
当時福井県武生警察署に勾留されていた延岡に対する捜査官の取調状況は後記(四)に掲記した留置人出入場一覧表に記載のとおりである。そして、この一覧表によつてみるかぎり、延岡が五月九日に一週間ほど考えさせてほしいと述べ、五月一六日に至り被告人のことを供述し始めたという状況では到底ないのである。すなわち、
五月一〇日は午前九時から午後九時まで三回に分けて合計九時間一〇分
五月一一日は午後一時三〇分から午後八時三〇分まで二回に分けて五時間四〇分
五月一二日は午前九時から午後八時五五分まで三回に分けて合計一〇時間二七分
五月一三日は午前一〇時から午後九日四〇分まで三回に分けて合計九時間三五分
五月一四日は午前九時一五分から午後九時二〇分までに分けて合計八時間五五分
五月一五日は午後一時から午後九時一〇分まで二回に分けて七時間一〇分いずれも堂山警部補の取調を受けているのである。
堂山第一審証言では、右五月一〇日から一六日までの間は事件のことには触れず専ら雑談に終始したというが、右のように連日長時間にわたつて(一二日の如きは実に一〇時間二七分に及ぶ)延岡を留置場から出し取調室で相対して雑談に終始していたとはおよそ考えられないことである。五月一五日の如きは日曜日であるから、県警本部に勤務し延岡の取調に専従していた堂山としては、延岡の右申出を幸いに(堂山も教唆者についての供述を延岡から引出す日として翌一六日を考えていた旨証言している)、久しぶりの休日を取ればよさそうなのに、それをせず、いつものように、しかも延岡を取調べるつもりもないまま、武生警察署に出張し、延岡を留置場から出し、合計七時間余これと雑談していた、ということになるのである。全く理解に苦しむ証言内容である。
さらに、堂山は、「五月一六日は午前九時から延岡の取調にかかつたが、同人はすぐに教唆者として被告人の名前を出した。この日は午後に延岡の弁護人である黒田弁護士の接見が予定されていると聞いていた。被疑者の供述というものは、時々、弁護士の接見を境にがらりと変わることがあるので、せつかく重大な証言をしてくれたのに調書を取らずにおくと、弁護士との接見によつて供述が変るおそれがあると考えたので、急いで延岡の供述を全部調書にまとめた。調書を完成したのは一二時過ぎであつた。」「その日の午後延岡は弁護人に接見したが、その後では延岡は非常に気分を害していて、『あのくそ弁護士は誰の弁護士やわからん。』『へたなことは絶対言うなとばかり言うてる。』などといつていた。自分としてもこの日の午後には延岡から親分の話以外の調べを調書化する予定であつたが、延岡が弁護士に会つた後、途端にその供述が得られなくなつた。」旨証言する。
しかし、これは余りにも稚拙な嘘である。もともと右一六日には弁護人による延岡接見の事実は全くないのである。このことは後記(四)の留置人出入場一覧表によつて明白である。すなわち、この日は午前九時から午後一〇時一〇分まで堂山の取調があり、午後も一時二〇分から六時までと七時三〇分から九時一〇分までの計六時間二〇分にわたり堂山の取調があつたのであり、その間弁護人の接見は全くなかつたのである。
また、堂山は、五月一六日から六月二一日までの間にも、被告人の教唆事実についてさらに詳細な取調をした、しかし、調書は延岡と被告人との関係についての分一通を作成しただけである、教唆に関する動機、教唆の状況、拳銃受取りの状況についてさらに細かい取調をしたが、調書は作成していない、と証言する。
そのいう延岡と被告人との関係に関する調書というのは延岡の堂山警部補に対する昭和五二年六月三日付供述調書であることは明らかである。そして、同調書は「私と波谷の親分との関係について今から申し上げます。」に始まり、波谷との知合関係、波谷組に加わつた経緯、波谷組の組織構成等を述べた後、「最近は私一人でしのぎをしており、とくに親分の世話になるようなこともありません。」と結んでいるのである。前記五月一六日警面調書が真にその日付どおりに録取されたものであるならば、その後作成された六月三日付調書には通常「波谷の親分」である被告人から命令(教唆)を受けた旨一言述べた後でその親分と自己との関係を述べるなど、さきの供述との関連を示す叙述があるはずであるのに、そのようなものは全くない。むしろ、その全文を読むと、右六月三日付調書は延岡が教唆者として被告人の名前を出す前のものであること、同日堂山は、延岡に対する教唆者として被告人に照準を当て、まず延岡と被告人との関係、延岡の属する波谷組の組織構成など前提的な事実について聴取した後、延岡に川内殺害を教唆した者は被告人である旨の延岡供述を引き出そうと試みたが、これに失敗したことをさえ思わせるふしがある。「最近は親分の世話になるようなことはない」旨の調書末尾の言葉はこのことを端的に示すものといえよう。
さらに、五月一六日より後の分として、同月二六日、同月二七日、六月一日付各日付の延岡の堂山に対する供述調書が存するのである。しかし、それらは、実行者四名間での謀議、拳銃の分配、加納一恵も一枚加わつていることなど、これまでの供述の繰り返えしか、やや詳しく述べた程度のものであつて、被告人の名は全く出てこないのである。堂山が、そのいうように、真に五月一六日より後にも被告人の教唆事実についてさらに詳細な取調をし、延岡からこれにそう供述を得たならば、何故実行についてのいわば蒸返えしともいうべき調書のみを作成して肝心の本件教唆につき一層詳細な供述調書を作成しておかなかつたのであろうか。全く理解に苦しむところであり、堂山証言中にもこの点についての合理的説明は全くないのである。
また、堂山は、六月一四日加納逮捕の目的で大阪へ出張した際延岡の妻I子に会つたが、それは既に延岡の口から教唆者として被告人の名前が出ていて、いずれ被告人を逮捕することとなろうから、その際のI子の身辺を気遺いそれとなく注意してやるためであつた、と証言する。しかし、「それとなく注意」するにしても、その趣旨がI子に理解できなければ無意味であるし、また逆にI子がその趣旨を理解しえたとすれば、それが同女の口から洩れて被告人の耳に入る危険が当然に予想されるところであつて、およそ捜査官として採るべき道ではないのである。この証言自身矛盾撞着というべきであるし、堂山がI子に伝えたという言葉も趣旨甚だ明確でない。I子は第一審及び原審各公判を通じ、「六月一四日夕刻堂山に呼び出されて大阪府警近くの喫茶店へ二人で入つた。そのとき、堂山は、『延岡は、本当のことを言つたらあなたが大阪に住めんようになるのではないかと心配している。』といつたので、私は、『九州でも帰えるからいい。』と、答えた。すると、堂山は『奥さんがそのつもりだつたら、延岡に伝えて五、六年で帰れるようにしてあげる。』といつたので、私は『お願いします。』といつた。」旨証言しているのである。たしかにこれだけでは、I子も第一審公判でいうように、堂山の話の趣旨がI子には呑み込めなかつたであろう。しかし、ひるがえつて堂山の立場に立つて考えた場合でも、当時既に延岡の口から教唆者として被告人の名前が引き出されていての話とは到底思われず、むしろ、I子に会い延岡説得の手掛りを得ようと考えていたのではないかとも思われるのである。何よりも、それまでに右延岡供述を得ていたならば、何故堂山はその裏付けをこの機会にI子から取ろうとしなかつたのであろうか。教唆者とされた被告人において自白しないかぎり、延岡供述から裏付ける資料は四月一日被告人からの電話を取り次いだとされているI子からこれにそう供述を聴取する以外には全く他に方法がないことは延岡供述自体によつて明白なのである。然るに堂山がこの折角の機会に(堂山はその際二泊三日大阪に滞在していてI子から裏付けのための聴取を行う時間的余裕はあつたはずである)その措置に出なかつたのは、当時はまだそのような裏付け捜査をすべき段階ではなかつたこと、すなわち、まだ教唆者として被告人の名前が出ていなかつたことを示すものに外ならず、I子と合つた目的についていう右堂山証言が嘘であることを如実に示すものというべきである。
堂山はさらに、右五月一六日付警面調書作成後における同調書の処置について次のようにいう。すなわち、「私はこの事件では延岡の取調を担当した。そして、取調の結果はその都度上司に報告し作成した調書もその日のうちか翌日には原本自体を上司に提出し、そのコピーをもらつて自分の手許に置いていた。ところが、この五月一六日付の調書は右のような通常の措置によらず、原本自体を自分の手許にとどめ、筆記道具とともに鞄の中に入れて毎日持ち歩き、上司にはなんらの報告もしなかつた。このようなことをしたのは、自分としては初めての経験であるが、それは、このときの延岡供述が非常に大事な供述であり、いろいろの影響を考え、他の共犯者の自供などと相待つてこの延岡調書を上司に提出しようと考えていたからである。」(そして、「六月二〇日高木検事が延岡を取調べた後で初めて自分の調書を表に出した。」と当初述べたが、後にこれを訂正して)「ところが、六月七日ごろ、高木検事が武生警察署に立寄り、延岡を混じえ私と三人で雑談した折、延岡は同検事の話に興奮して思わず波谷の親分について私に言つたと同じような供述をしたので、私から同検事に『実は私にも既に延岡が親分の話をしておつた。こういう調書を取つてあります。』といつて五月一六日付の調書を見せた。そして、既に延岡は高木検事にも被告人の教唆事実を述べたということで、私は六月八日ごろ上司の多田警部に延岡から重大な供述があつたといつて、右調書を提出した。」旨証言しているのである。
高木康次検事(右堂山証人の二回にわたる尋問に際し立会し主尋問に当つた)は、第一審公判において、右堂山証言を支援するが如く(しかし、堂山から延岡の被教唆事実を初めて聞かされた時期など幾つかの重要な点では符合しない)、次のとおり証言する。すなわち、「五月二四日の午後七時ごろから七時半ごろまでの間延岡を調べたことがあるが、その取調が終つた後、堂山から『実をいうと、延岡が波谷のことを自供し、調書も取れている』と聞き、その記書も見せてもらつたが、調書の内容までは見ていない。私も調書の内容を見たいと思つたが、堂山が『この調書はまだ誰にも見せていないので、見せることはできない。』というので、あえて見る必要はないといつて、内容は読まなかつた。その後五月下旬多田警部から延岡が波谷のことを自供したと聞いたことがある。次いで六月七日武生簡裁へ公判立会のため行つた帰りに武生警察署に立寄つた際、供述の裏付を得たいと思い、取調室で、堂山を脇に置いて、延岡と相対して坐り、二、三雑談した後、延岡に『君もこのような事件をやらなければならなくなつたのは気の毒だな。』と一言いつたところ、延岡はわつと泣き伏し、波谷から命令された状況を泣きながら話した。私は、かわいそうな気になつたが、やはり聞かなければならないと思い、いろいろと質問したら、延岡は泣きながら、親分から命令された状況を話した。その自供を聞いて私は初めて延岡が四月一日ごろ波谷から命令され、拳銃二丁と実包、それに現金二〇〇万円を受取つたことを知つた。自供の時間は大体一〇分間ぐらいであつた。本来ならばその場で調書を取るべきであるが、立会事務官を連れて行つていなかつたし、延岡が『わしは一度吐いたつばは飲み込まん。』と、自供を覆さないように言つたので、後からでも調書は作成できると思い、この日は調書を取らなかつた。右自供を聞いた後で、堂山は『もう延岡が話したので、調書を見せます。』といつて、私に調書を見せてくれたが、私に対する自供と同じ内容であつた。六月二〇日事務官と一緒に武生警察署に赴き、延岡を取調べた。その時は六月七日に聞いたことを確認しながら調書を作成した。この二〇日には取調に先立ち堂山から五月一六日付の調書を受取り内容を読んで頭に入れてから取調を行い、取調が終つてからその調書を堂山に返した。この時点では右調書はまだ正式には検察庁へ届けられていなかつた。」「六月七日に自供を得ながら同月二〇日まで調書を作成しなかつたのは、先程述べたように自供が変るおそれはないと思つたこと、第二点は加納一恵を逮捕することによつて一気に組上層部を解明し、これに基づいて波谷も同時に逮捕したいという考えがあつたこと(しかし、六月二〇日調書作成の時点でもまだ加納は逮捕されていない)、第三点は暴力団特有の件だが、延岡が波谷のことを自供したことはできるだけ隠して、延岡のメンツを立ててやりたい、加納を逮捕してその段階で組上層部をすべて追及する、その時に延岡の調書を作成したい、と考えたからである。」と。
右両捜査官の証言は、なんらの先入観をも持たない者(少なくとも先入観を一応棚上げして虚心にその証言を聞き又はその証言調書を読む者)には全く真実性のないものと映ずるであろう(だからこそ、第一審判決も五月一六日付警面調書がその日付どおりに作成されたかどうかは疑わしいというのである)。それにしても、右警面調書が堂山警部補のいうとおり五月一六日に聴取作成されたとしたならば、その後における堂山の同調書に対する取扱いがいかに奇怪であるかは論を待たないであろう。それは単に警察内部における犯罪捜査規範に違反した措置であるかどうか(堂山の第一審第一〇回公判調書参照)などという問題ではない。刑事証拠法の運用について全く無知な者にして初めてなしうる行為であり証言である。また、五月二四日堂山から延岡が被告人による教唆事実を供述したことを聞き、さらに六月七日自ら延岡より右教唆の事実について詳細聴取したという高木検事の証言についても同断である。本件川内殺害事件は、誰が見ても、延岡ら四人の実行者のみによつて企てられたものではなく、これに共進会の副組長で石川支部長であるとはいえ、加納ひとりが加わつた程度のものとも考えられず、それらの背後にあつて川内殺害を企図し実行者らと共謀し又は依頼(教唆)した者が一名ないし数名控えているであろうことは明々白々な事案なのである。さればこそ右実行者四名が起訴された五月五日以後も、堂山、高木らは専ら(といつてよいと思う)その背後関係を明らかにし共謀者教唆者等(加納を含む)を割出そうとして、実行者全員を第一回公判期日である六月二八日まで実に五五日間いずれも接見禁止処分のもとで県内各署に分散勾留し取調を継続したのである。裁判所から第一回公判期日を六月上旬にしたい旨申入れがあつたのに対し高木検事が「都合が悪い。」と断つた(高木証言)のも同期日までに背後関係を解明したいとの意向からと考えられる。他方、延岡が公判廷で被告人の教唆事実を否定した場合(高木証言によれば、六月七日の時点で、延岡が教唆事実は法廷では証言できないといつていた、とのことである)、伝聞証拠である延岡の警面調書又は検面調書によつて被告人の罪責を立証することとなろうが(本件教唆については他に証拠は全くない――このことは堂山、高木の両名とも十分承知のはずである)、この場合、被告人がこれらの調書を証拠とすることに同意しないときは(捜査官は通常不同意の場合を想定して捜査を進めているはずである)、結局、刑訴法三二一条一項二号又は三号によつてこれらの調書の取調を請求することとなるであろう。そして、その場合、警面調書は右条項の三号所定の特別な事情のある場合に限つて証拠能力が認められるのであつて、実際上は殆ど証拠となりえないのであるが、これに反し、検面調書は同条項二号後段により比較的広く証拠能力を認められるのである。制度的にみてもそうであるし、特に刑事裁判の実情に徴すれば両者の間には証拠となしうるかどうかについて雲泥の差があるのである。検察官として相当の経験を積んだ高木検事はもとより、刑事警察の経験一〇年という堂山警部補も右刑訴法の規定や刑事裁判の実情、ひいて捜査のあり方を知らぬことはよもあるまい。そうだとすると、堂山は、鋭意追及してきた教唆者の名が延岡の口から初めて出たのであるから、直ちに上司に報告するとともに上司を通じ当該警面調書を早急に検察官に送付し、検察官がその判断と権限に基づき早期に延岡の供述を録取することに遺漏なからしめるよう措置したはずである。また、高木は、そういうように五月二四日に延岡の口から教唆者として波谷の名が出た旨堂山より聞いたとすれば、時を移さず延岡からその旨の検面供述を録取すべく段取りをしたはずであるし、殊に六月七日自ら教唆事実について拳銃及び現金の授受まで含めて詳細聴取したというのであるから、直ちにその場で自ら延岡の検面調書を作成するのが本来あるべき姿なのである。その際検察事務官を同行していなかつたなどというのは理由にはならない(検面調書の作成について、検察事務官の立会、録取は刑訴法上全く要求されていないのである)。
このように堂山及び高木はその各証言に従えば警察官として、また検察官として本来執るべき措置を執らなかつたということになるが、しかし、それはそのような職務上の規律違反ないし職務怠慢として理解すべきではなく、むしろ遡つてその証言自体が嘘であると考えるべきである。全くそうとしか考えようがないのである。右両名が通常の措置を執らなかつた理由として述べるところは、それ自体によつて明らかなように、まことに児戯に類する弁解であり、そのいう通常でない措置を執つたことの理由としては人を納得せしめうるものではない。例えば、堂山は五月六日に延岡から被告人の教唆事実についての告白を受け、その日の午後弁護人との接見が予定されていたので(このこと自体が嘘であることはさきに述べた)、急いで午前中に供述調書をまとめたという。ところが、その告白が検面調書として録取された六月二〇日より前の五月二九日及び六月二日には延岡は黒田、西畑両弁護人と接見しているのである(次の(四)掲記の留置人出入場一覧表参照)。そのいう如くならば、検面調書作成前に当該告白がひるがえされる危険性は極めて大であつたということになる。さらにいえば、高木検事は、六月一七日に延岡の取調を行い調書を作成しているが、同調書には実行者延岡、中川、田中間での拳銃分配状況についてのみ記載されていて、被告人による教唆事実についての記述は全くない。検察事務官の立会もあり、いわば膳立てがそろつているのに、何故教唆に関する供述を録取せず、さらに二〇日まで延ばしたのか、といいたい。
延岡は原審公判廷で、堂山警部補に供述を録取された際にはいつも同警部補は調書に日付を記入しなかつた、堂山の話では、共犯者四人の調書は日付を空けておいて誰が最初に言つたかわからないようにしておき、四人の話が合つたら四人とも同じ日付にするのだということであつた、という。理解困難なことではない。特に延岡調書にはいつも日付を入れなかつたとの供述部分は、取調の日付は調書冒頭の不動文字による例文中に挿入されるのであつて一般に読み聞けの対象外とされるということも考えられること、堂山による延岡供述調書は合計一五通作成されているが、その都度延岡はその場にあつて作成状況を見ていたと考えられることに徴し、信用できると思う。
右一五通の延岡の警面調書(録取者はすべて堂山)を通覧して奇異に感ずることは、五月一六日付調書と他の一四通の調書との間に、その前文の記載の仕方において奇妙な不整合が見られるということである。そして、これは右五月一六日付調書が他の一四通の調書全部の作成された後の時期に作成されたために生じた不整合性とみる以外に考えようのない事柄である。すなわち、まず本籍についていえば、五二年四月一三日付から同月一九日付までの四通には「阿賀町南」と記載され、また、四月二〇日付から六月三日付までの一〇通(五月一六日付を除く)には「阿賀南」と記載されているのに、五月一六日付では「阿賀南町」とあつて他の一四通のいずれとも異る。次に住居、生年月日、年令、供述の年月日を表示するに当つては記載されている数字を見ると、例えば四月一三日付調書では(住居)「三の二十九」、(生年月日)「二十四日生」、(年令)「四十八歳」(供述した日)「五十二年四月十三日」とあり、これは五月一六日付を除く一四通の調書全体に通ずる書き方であるのに、ひとり五月一六日付のみは(住居)「三の二九)、(生年月日)「二四日生)、(年令)「四八歳」、(供述した日)「五二年六月一六日」というように「十」の文字を除いた新様式によつている。このように五月一六日付調書と他の調書一四通との間に見られるような書き方の違いは、そのまま、右五月一六日付調書がその日付のとおり中間段階(日付順でいえば一〇通目)で録取作成されたものではなく、他の調書中の日付の最終のものすなわち六月三日付のものより相当日数を経て録取作成されたものであることをうかがわせるに十分である。
ところで、延岡の第一、二審公判供述及び昭和五六年一〇月二六日付上申書(新資料第二号の三)によれば、延岡は当時肝臓病や糖尿病を患つていて体も弱つていたのに、堂山から連日長時間にわたり、「事件の黒幕は誰か。言え、言え。」ときびしく責め立てられたので、その追及から逃れるため、六月に入つて後、「黒幕のことを言うから、一週間か一〇日ほど猶予をくれ。」というと、堂山は初め「いいかげんな言い逃れをするな。」といつていたが、延岡が「わしも男だ。はいたつばは呑まん。」といつたので、少しの間考えた後、「本当だな。」といつて承知してくれ、その後延岡が教唆者として被告人の名前を出すまでの間は取調はなく、延岡は堂山の碁の相手をしたり、雑談したり、昼寝をしたりしていた、という。この延岡供述と堂山証言とを合わせ考えると、堂山が延岡の申出を容れ一週間ほど背後関係の追及を手控えたのは事実であると考えられる。しかし、その場合、その一週間ほどというのが、堂山の言うが如き、五月九日から五月一五日まででないことは既に述べたとおりである。
そこで、今一度(四)の留置人出入場一覧表を、特に六月一〇日以降の部分をご覧いただきたい。堂山が延岡に一週間ほどの猶予を与えたというその一週間ほどとはまさにこの六月一〇日又は翌一一日から始まる期間が最もふさわしいと考えられる。六月一〇日には延岡を林病院へ押送し内科的診療を受けさせている。右一覧表によつて明らかなように、四月一九日以来の武生署での勾留中で延岡が内科的診療を受けたのはこのときが初めてである。そして、延岡はその日の午後、昼間と夜間とで二回合計三時間四五分取調ということで留置場から出されている。翌一一日(土)は午前中に二時間五分留置場から出されているだけで、午後は留置場に留め置かれ、もとより取調はなかつた。次いで六月一二日は日曜日であり、延岡の取調はない。六月一三日は午前中に一時間四五分、午後に三時間一〇分留置場より出場。六月一四日から一六日までの間は加納の所在捜査ということで堂山は大阪へ出張し、その際わざわざI子を呼び出して既述のような問答を交わしている。六月一七日は午前中に一時間四五分、午後に三時間一〇分留置場より出場。六月一四日から一六日までの間は加納の所在捜査ということで堂山は大阪へ出張し、その際わざわざ呼び出して既述のような問答を交わしている。六月一七日は午前と午後とで合計七時間一〇分出場。六月一八日午前、午後を通じ五時間四一分出場。翌一九日は日曜日で取調なし。二〇日は午前中に一〇分間取調ということで留置場から出され、午後は五時間一〇分にわたり高木検事の取調を受けている。
右のとおり、六月一〇日から六月一七日までの八日間のうち、四日間は全く堂山による取調がなされていない。一〇日、一一日、一三日はいわゆる取調時間が比較的短かい。一〇日か一一日かに取調猶予の申出が諒承されて、その後は碁の相手又は雑談で時間を過すということが十分に考えられる。一七日のいわゆる取調時間は決して短いとはいえないが、碁の相手をしていたと考えると不思議でもない。
このようにみてくると、留置人出入場一覧表を通覧して、取調がなされなかつた約一週間というのは、六月一〇日以降が最もふさわしく、他にふさわしい時期はないのである。要するに、六月一〇日か一一日に延岡から前記のように一週間ほど考えさせてほしい旨の申出がなされて堂山がこれを承諾し、その後取調は中止されていたが、一八日に延岡の口から教唆者として被告人の名が出たのでその日それについての取調がなされ供述の録取が行われていわゆる五月一六日付の調書が作成され(被告人の名が出た日を一七日とすると、翌一八日(土)にも午前午後を通じ合計五時間四一分出場させながら、何故その日に検事調べを行わなかつたのか説明がつかない)、翌一九日は日曜日で休日。二〇日の午前中堂山は延岡を留置場から出して約一〇分取調べ、一八日の自供を改めて確認したうえ、高木検事に引継ぎ、午後同検事が堂山在席の場で延岡を取調べその自供を得たとみるのが極めて自然な見方である。
第一審判決(一四丁裏?一六丁表)は、右警面調書が五月一六日に作成されたものかどうかは疑わしいとするとともに、六月二〇日付及び同月二一日付各検面調書の証拠能力にも関連して次のようにいう。
「堂山警部補、高木検察官、被告人延岡、延岡I子の各証言を総合すると、結論的には、堂山警部補が取調べにあたり、単なる人道的な配慮以上の一定の捜査目的、即ち、教唆者に関する供述を得る目的をもつて、裁判所による接見禁止の一部解除の手続をとることなく、違法に、接見禁止中であつた被告人延岡にその妻I子を接見させた事実は否定し難く、しかも、被告人波谷の教唆事実につき供述のなされている堂山警部補作成五月一六日付司法警察員調書は該日時に作成されたものであるかどうか疑問が残るというべく、結局右五月一六日付調書は違法な手続により作成されたものとしてその証拠能力は否定すべきものである。
ところでこのように、違法な手続によつて収集された証拠を前提として収集された証拠の証拠能力については、前提となる証拠の違法が継受されるのが原則と解されるけれども、証拠能力否定の根拠となつた手続の違法性の大小と、右違法がその後の手続によつて収集された証拠に与えた実質上の影響力の大小とのかね合いいかんによつては、例外的に前提となる証拠の違法性がしや断される場合もあるものと考えられる。そして、右二通の検察官調書は、堂山警部補の作成にかかる右五月一六日付供述調書の記載内容を前提として高木検察官が被告人延岡より、被告人波谷の教唆事実を求めこれを録取したものであることから、右五月一六日の供述調書の違法を継受するか否かの検討を必要とするが、右五月一六日付供述調書の違法理由の一つである作成日付の正確性は右調書固有の問題であり、また、堂山警部補による接見禁止の一部無断解除の点については、右無断解除が捜査本部ないしは高木検察官の事前の了解を得ることなく、まつたく堂山警部補一個人の意思に基づいて行われたもので、高木検察官は右接見解除の事実を知らぬまま、被告人延岡からの供述を録取し、右二通の検察官調書を作成するに至つたものであること、同検察官の取調べの方法自体には格別非難されるべき点もなく、被告人延岡が同検察官に対し、従前の供述に拘泥し、それを変更することが客観的に困難な状況にあつたとは認められないこと等の諸点に照らすと、右二通の検察官調書は、右五月一六日付供述調書の違法をしや断しているものと考えるのが相当であり、加えて、右のような取調べ状況からしてその任意性を疑わせる事情も全く認められない。」と。
ところが、原判決(二一丁表?二二丁裏)は、まず、堂山の、延岡の五月一六日付警面調書は「六月七日までは(但し当初は六月二〇日までと述べ後に同月七日までと訂正する。)堂山の鞄中にしまつて置き、その事情を検察官には勿論、捜査上の上司にも全く報告していない。そのように供述を得た事情を上司にも報告しなかつたということはそれまで警察官として従事した捜査についてはした経験がない」旨の供述、及び、高木の、「昭和五二年五月下旬堂山警部補ほか一名の捜査官から被告人延岡が教唆者名を供述した旨聞き、六月七日別件公務で武生に赴いた際武生警察署に立ち寄り、同被告人に会つたところ、同人は机上に俯し、慟哭しつつ教唆者が被告人波谷であることを供述したが、その時の会話は一〇分程で終り、調書作成補助に従う検察事務官も同行していなかつたことと、被告人延岡が向後右供述を翻すおそれがないことを確信できたので、加納一恵の逮捕をまつて一気に事案の全容を解明したいと考え、また親分名を出した被告人延岡の心情を汲んでできるだけ右供述の事実を秘匿しておいてやりたかつたこととのため六月二〇日までは右供述内容を調書には作成しなかつた」との供述については、
「殺人教唆者名のごとき重要な事情の供述を得てその司法警察員調書を作成しながら右事実をかなりの期間全く上司に報告しなかつたり、また供述を得た右の如き理由で検察官調書を作成しないというのは甚だしく不自然、不合理なこと(現に被告人延岡は自ら申し出て同年九月一八日及び一九日右供述を翻し、原審及び当審公判廷でも被告人波谷の教唆を否定し、また高木検事は右被告人延岡供述を得てそれほど日時も経過していない同年六月二〇日及び二一日まだ加納一恵が逮捕されていないのに被告人延岡の検察官調書を作成している。)であつて右堂山、高木供述から、直ちにその内容に沿う事情を認定することはできず」
と、正しく判断しながら、一転して、右五月一六日付警面調書はその日付の日に作成されたことを不動の事実としたうえ、
「高木検事は堂山警部補が接見禁止の裁判を犯して被告人延岡とI子とを面接させたことを知つており、堂山警部補が五月一六日作成した前示司法警察員調書の証拠能力がそのために否定されしかもその瑕疵違法が検察官調書にも引き継がれると評されることがあるかも知れないことをおそれ、司法警察官調書の証拠能力が違法収集証拠として否定される場合原判決の説示するような理由でその違法性の承継が否定されることを所期して被告人延岡の検察官調書の作成時期を遅らせたのではないかとの疑を挾む余地はある。」
という。
しかし、警面調書の日付と検面調書の作成日との間に一か月を越える日数がある点についての原判決のこのような理由づけは、当の高木検事すら述べていないところであつて、全く証拠に基づかない臆測というのほかはない。原判決は、このくだりでは、検面調書の証拠能力を肯定するための必要から、警面供述獲得の手段における違法性の影響が検面調書にまで及んでいないといわんがため、右の如き論理をあえて用いたのかと思われるのである(しかし、他の個所では、警面調書自体についても原審相被告人延岡「の関係自体においても違法収集証拠としてその証拠能力を否定されるいわれはなく、ましてこれが被告人延岡以外の者との関係でも絶対的に証拠能力を否定さるべきものであるなどとは到底いえず」と開き直つて積極的に証拠能力を認めているのである――四〇丁裏)。原判決の右判断は全く驚くべき独断であり、しかも、場当り的で、無責任極まるものといわざるをえない。
(四) 次に、延岡に対し堂山警部補によつて加えられた直接強制について述べる。
武生警察署長中村哲作成の昭和五五年三月二六日付回答書及びこれに関連する照会書(原審弁護人請求番号一〇二)によれば、右武生署に拘留されている間の延岡に対する取調状況は次の一覧表<略>のとおりである。
これによつてみれば、延岡は起訴された日の翌日である五月六日早速に午前九時から午後八時四五分までの間三回に分けて合計九時間四〇分の取調を受けているのである。そして、延岡の検面供述が得られた六月二〇日の前日までの取調状況をみると、五月二八日(土)、六月五日(日)、六月一九日(日)と堂山が大阪へ出張したという六月一四(火)から六月一六日(木)までを除き、それ以外は日曜日も含めて連日堂山による取調が行われ、しかも各日における取調時間は五月六日から六月一八日までの間で取調時間が五時間に満たないもの合計一〇日に過ぎず、他はすべてこれを越える長時間である。特に、五月一二日は三回に分けて一〇時間二七分、六月七日は二回に分けて一一時間一五分という長時間に及ぶのである。その間における延岡の心身の疲労は大きく、かつ、逐次蓄積されつづけたものと思われる。実際に延岡が糖尿病と肝臓障害を患つていたことは同人の第一審証言及び医師高原正好の回答書(原審弁護人請求番号八三)によつて明らかであり、この面からも延岡の心身の疲労は一層大なるものがあつたと考えられる。
延岡は、第一、二審公判を通じ、毎日堂山警部補の取調を受け、背後関係を言え言えと追及され、親分に頼まれたんじやろうといわれた、と証言している。このことは堂山証人もあえて否定していない。
ところで、原判決(三七丁裏、三八丁)は、起訴後の延岡取調の適否に関連して、
「起訴後被告人の地位に立つに至つた被告人延岡に対し供述を求めてこれを取り調べることは同被告人に対する公訴事実の背後事情、犯行に至る経緯についての捜査をするという性格を一面において帯有することはいうまでもないが、それよりもむしろ右背後で川内殺害を企図した者を割り出し、これに対する刑責を追及するための捜査である性格を遙かに強く帯びている事情を否定し得ず、」
という。
たしかに、そのいうとおりである。しかし、だからこそ厳しく証拠排除すべき必要性があるのである。けだし、追及される事柄は直接には自己の罪責の成否には影響がないうえに、背後関係を真実らしく述べれば自己の刑責が軽くしてもらえるかも知れないとの誘惑にも駆られて、虚偽の供述をする危険性が常につきまとうからである。「親分の名前を出したらそれ以上追及せんだろう」とか「親分は真の教唆者ではないのだから、結局、親分が起訴されることはあるまい。」などと思つたという延岡証言は一見にして安易に過ぎ不合理なようであつても、事実この虚偽の供述によつてそれまでの際限のなかつた追及は止んだのであり、「親分が起訴されることはあるまい」との判断もむしろ他の証拠が皆無であることからして客観的に正当であり、延岡でさえ直観的に公訴権のそのような適正行使を予想していたものとして、首肯できるものであるが、それにしても無責任な供述によつて親分である被告人に迷惑をかけることをあえて辞さなかつた心理にこそ、捜査官から背後関係を厳しく追及されて、真の教唆者(延岡原審供述にいう「A」)を秘匿しおおせさえすればよいとばかりに、場当り的な供述をするという、虚偽供述へと引き寄せられてゆく延岡の精神的動揺が如実に示されているといつてよいであろう。
要するに、叙上の堂山による取調状況自体、強制というほかないのである。
なお、前記取調時間のすべてが堂山らの取調に当てられたわけではなく、いわゆる雑談に費された時間も相当あることは、堂山及び延岡の各証言で十分にうかがいうる。堂山証言自体によつても看取できるように、そのいう雑談もまた取調の一環をなすものであるし、その間必ずしも延岡が精神的に解放されていたわけではないと思われるのである(東京地裁昭和四一年一二月一二日判決・判例時報四七七号)。
(五) さらに、延岡に対し堂山警部補によつて加えられた心理強制について述べる。
それは要するに、次に列記するとおり、違法な利益や便宜を供与し又はこれを約束して延岡に対し強力に供述を誘引し、心理的に強制したということである。
① 延岡は五月五日の起訴後も第一回公判期日(六月二八日)までは接見禁止処分を受けていたのである。ところが、堂山は、この禁を破り、裁判所の許可(接見禁止決定の一部解除)を受けることなく、勝手に、四月二八日、五月九日、五月二四日ごろの三回にわたり、一時間ないし二時間、延岡に妻(初め二回は内妻)I子と接見させているのである。このことは延岡及びI子の第一、二審証言で明らかであるのみならず、堂山証人も五月九日及び同月二四日ごろについてはこれを認め、原判決も堂山証言に従いこの二回分は肯認し四月二八日についても互に望見ぐらいはさせたことは大いにありうると説示しているのである(一八丁表)。そして、その間、延岡とI子が正式に婚姻するについても堂山が橋渡しの役を演じたことは証拠上争いがたい事実である。
② 延岡が逮捕時所持し武生警察署が預り保管中の現金の中から六〇万円を、延岡の依頼に基づき、四月二八日夜堂山自らI子が泊つていた武生市内の旅館に持つて行き同女に手渡した。証拠上争いがたい事実である。
③ 延岡の原審証言によれば、堂山は、「わたしと加藤検事は警察の同期だから、今、親分の名前を出したら、加藤に頼んで刑を負けてもらえるから、今言うたほうがよいぞ。」といわれた、とのことである。堂山証人は否定するのであるが、I子が六月一四日大阪で堂山と会つたとき堂山から「延岡が五、六年で帰れるようにしてあげる」旨言われたと第一、二審で証言していること、及び、堂山自身第一審第一〇回公判で加藤検事とは警察時代の同期生である旨証言していること(これによつてみると、堂山の口から加藤検事と警察の同期だと延岡に告げたこともうかがわれる)をあわせ考えると、右延岡証言もまんざら嘘とも思われない。ちなみに、右加藤検事というのは、高木検事の指導下にあつて本件一連の事件の捜査に当つていた検察官である。
④ 堂山は取調の途中で、延岡にコーヒーをご馳走したり、テレビを見せてやつたり、碁の相手をさせたりなど、この面においても異例の好遇を与えている。
このような場合、当該供述は任意性に疑いありとされ証拠能力が否定されることは、幾多の判例の示すところである(最高裁昭和四一年七月一日第二小法廷判決・刑集二〇巻六号五三七頁、福岡地裁小倉支部昭和四一年八月二九日判決・判例時報四八〇号七七頁、東京高裁昭和四一年一二月二一日判決・判例時報四七六号六三頁、福井地裁昭和四六年一一月二六日判決・判例時報六六二号一〇六頁、大阪地裁昭和四九年九月二七日判決・判例時報七七七号一一一頁)。
第一審判決は、右先例に従い、(三)に摘記したとおり、延岡の五月一六日付警面調査の証拠能力を否定した。
ところが、原判決(三八丁裏?四〇丁裏)は、
「勾留されている被告人(または被疑者、以下同じ)に対する接見交通禁止の裁判は被告人に逃亡し又は罪証を隠滅すると疑うに足りる相当の理由がある場合、これを防止するため、普通なら当然認められている第三者(弁護人又は弁護人となろうとする者を除くことは勿論以下同じ)との接見交通等を禁止する裁判であつて、これが当該被告人にとつて不利益な裁判であることは勿論であり、またその一部解除等の裁判を得ないで検察官、司法警察員等の捜査機関が被告人と第三者とを接見交通等せしめることは少くとも公訴の提起後には許されないこともいうまでもなく、前記事実認定五、六項に認定した司法警察員堂山警部補による被告人延岡とI子との面接許容は右の一般的意味での違法性を備える以上に他警察官の勤務時間終了後に取調室で同警部補のみの立会下に内縁関係の夫婦(五月九日の段階では夫婦)を面接せしめる点で、また認定の同警部補のI子との会見も同警部補が単身旅館や喫茶店で事件関係の女性と会見するという点で種々の疑惑を招きかねない軽卒な所為であるとの譏を免れず、しかも、被告人延岡が多分はI子を瞥見程度はしたものと認められ、堂山警部補により六〇万円の所持金をI子に届けてもらうという便を計つてもらつた四月二八日に加納一恵が川内殺害に関係している事情の一端を明らかにし始め、I子と面接し婚姻入籍の相談をしたと考えられる五月九日、気持を整理するからとて一週間の余裕を求め、同月一六日教唆者が波谷である事情を供述した事実に徴すれば、被告人延岡の原審・当審における供述内容がどうであれI子との面接と川内殺害の背後事情を供述しようと思つた心理過程間にある程度の関連のあることはほぼ確実であると評すべきである。
しかしながら堂山警部補の独断でなされた被告人延岡とI子との面接は、認定のとおりの内容のものである限り認定の裁判所の接見交通禁止の裁判によつて奪われ、それがなければ被告人延岡に当然認められているI子と面接する利益を違法に同人に与えたもので同被告人に認められる重要な権利をなんらかの意味で侵害したものとは考えられないし、また刑期のことを気にする同被告人に対し事実を供述すれば裁判の刑も軽くなる旨述べて供述を説得したからといつて、それは一般的にあり得る利益の説明をして真実を供述しようとする心機に傾くよう説得する程度のものにとどまると認められ、司法警察員堂山警部補が裁量的に行使し得る権限を不当に行使して同被告人に法外な利益を与える旨約束したり、又はそのような利益を与える権限があるかのように偽り欺いて誘導的に供述を求めたりしたものと解せられないからその取調過程に認定のとおりの堂山警部補による違法な接見許容行為等があつたからといつて、その取調の結果得られた被告人延岡の司法警察員に対する五月一六日付供述調書が、同被告人の関係自体においても違法収集証拠としてその証拠能力を否定されるいわれはなく、ましてこれが被告人延岡以外の者との関係でも絶対的に証拠能力を否定されるべきものであるなどとは到底いえず」
と説示し、五月一六日付警面調書につき証拠能力を肯定した。
しかし、右原説示は、その前後において、教唆者として波谷の名を初めて出した日を五月一六日とする点を除き、正当な判断を示しながらも、「しかしながら」以下の後段においては驚くべき判断に陥つている。すなわち、
まず前記①の違法接見については、延岡に「認められる重要な権利をなんらかの意味で侵害したものとは考えられない」などという原説示は見当違いも甚だしい。問題はそのような延岡自身の権利を直接侵害したかどうかにあるのではなく、当該違法接見が延岡の心理にどのような影響を及ぼしたかにあるのである。この見地から観察すれば、違法接見の利益を与えられたこと、そして、このことは当然に将来も同様の利益を享受しうるであろうとの期待を伴うものであるが、これらのことが自白の動機となり、ひいて虚偽自白への強力な誘因となつたであろうことは見易い理であろう。心理強制というゆえんである。そして、このことは、②ないし④の利益供与ないし利益誘導についても同様である。さらに③についていえば、堂山が刑期に影響を与えるような権限を有するかどうかが問題なのではなく、警察官である堂山から、その権限を有すると延岡が当然に考えるであろう加藤検事への働きかけを申出で又はこれを約束したことが問題なのである(この段全般につき、児島武雄「約束による自白」証拠法大系Ⅱ四八頁参照)。
(六) 右(四)及び(五)に記述したような直接強制及び心理強制が捜査官である堂山警部補によつて延岡に加えられた結果として被告人による教唆をいう延岡警面供述が得られた本件においては、その二日後に、しかも、同じく武生警察署において勾留され接見禁止中の延岡が、同警察署の取調室において、かつ、堂山の在席する場で、同じく担当捜査官である高木検事の取調を受け、その面前で同趣旨の供述をしたというのであるから、右延岡の検面供述は、堂山による強制の影響を遮断するための措置を執つたなど特段の事情の存在しないかぎり、堂山による強制の影響下でなされた自白として任意性を欠き(最高裁昭和三二年七月一九日第二小法廷判決・刑集一一巻七号一八八二頁<八丈島事件>、石川才顕「警察における自白強要の検察官に対する自白への影響」証拠法大系Ⅱ一二三頁)、かつ、なんびとの関係においても証拠とすることが禁じられるべきものである。そして、本件においては右特段の事情は認められないのである。
原判決は、延岡の当該警面調書がその日付どおり五月一六日に録取作成されたとし、かつ、堂山による強制の事実はなかつたといい、その前提において弁護人と見解を異にするので、ここでは原説示には触れない。
しかし、第一審判決(一四丁裏?一六丁表)は、堂山の延岡に対する心理強制(妻との違法接見)の事実を認めて延岡の当該警面調書の証拠能力を絶対的に否定し、かつ、同調書がその日付どおりに作成されたかどうかは疑わしいとしながら、延岡の六月二〇日付及び同月二一日付各検面調書については証拠能力を肯定するのである。そして、その理由として、次のようにいう。
「ところでこのように、違法な手続によつて収集された証拠を前提として収集された証拠の証拠能力については、前提となる証拠の違法が継続されるのが原則と解されるけれども、証拠能力否定の根拠となつた手続の違法性の大小と、右違法がその後の手続によつて収集された証拠に与えた実質上の影響力の大小とのかね合いいかんによつては、例外的に前提となる証拠の違法性がしや断される場合もあるものと考えられる。そして、右二通の検察官調書は、堂山警部補の作成にかかる右五月一六日付供述調書の記載内容を前提として高木検察官が被告人延岡より、被告人波谷の教唆事実の供述を求めこれを録取したものであることから、右五月一六日付の供述調書の違法を継受するか否かの検討を必要とするが、右五月一六日付供述調書の違法理由の一つである作成日付の正確性は右調書固有の問題であり、また、堂山警部補による接見禁止の一部無断解除の点については、右無断解除が捜査本部ないしは高木検察官の事前の了解を得ることなく、まつたく堂山警部補一個人の意思に基づいて行われたもので、高木検察官は右接見解除の事実を知らぬまま、被告人延岡からの供述を録取し、右二通の検察官調書を作成するに至つたものであること、同検察官の取調べの方法自体には格別非難されるべき点もなく、被告人延岡が同検察官に対し、従前の供述に拘泥し、それを変更することが客観的に困難な状況にあつたとは認められないこと等の諸点に照らすと、右二通の検察官調書は、右五月一六日付供述調書の違法をしや断しているものと考えるのが相当であり、加えて、右のような取調べ状況からしてその任意性を疑わせる事情も全く認められない。」
しかし、延岡に対しては堂山によつて違法接見のほかにも各種の心理強制が加えられたのみならず、直接強制さえ存することは既に述べたとおりであり、このことを看過した第一審判決はその前提において誤りがあるのである。また、五月一六日付警面調書の日付の正確性の点は決して「右調書固有の問題」ではなく、同調書はいつ作成されたのか、同調書作成日と検面調書の作成日の接着性如何、ということこそが堂山強制の影響を論ずるうえで必須の事情なのである。さらに、高木検事が延岡取調時違法接見の事実を知つていたかどうか、同検事の取調方法に非難されるべき点があつたかどうかもこの際問題ではなく(この点において第一審判決は前記八丈島事件判決に対する理解を欠く)、堂山による強制の影響が高木検事の取調時になお延岡の心理に残存していたかどうかが重要なのである。そして、(三)ないし(五)において論じ来つた事情に徴すれば、まさにその影響が残存していたとみざるをえず、「延岡が同検察官に対し、従前の供述に拘泥し、それを変更することが客観的に困難な状況にあつたとは認められない」などとはいえないはずである。
(七) 昭和五六年一一月一九日の各新聞朝刊は、土田国保警視庁警備部長宅爆破事件について、東京地裁が被告人の捜査官面前自白は起訴後連日長時間にわたる取調の結果得られたもので任意性に疑いがあるとしてその取調請求を却下した旨大きく報道した。本件について参考となると思われるので、その中から朝日新聞のコピーを本趣意書に添付し(付一)、参考に供する。
三 原判決は、伝聞法則を余りにも甚だしく逸脱しているのであり、この点において憲法三七条二項前段に違反する。
憲法三七条二項前段は、「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ(る)」と規定している。この規定は伝聞証拠禁止の原則に憲法上の根拠を与えたものである。もつとも、刑事司法の目的達成のためには、右原則に対し、相当程度の例外を認めざるをえないことは弁護人においても十分に理解しているつもりである。その例外をも含んだいわゆる伝聞法則を定めた刑訴法の各規定を肯認するのにやぶさかではない。しかし、そこでは、同法三二六条のように被告人が自己の意思によつて反対尋問権を放棄しこれによつて広く伝聞証拠が証拠とされる場合と、これとは対蹠的に、同法三二一条一項二号後段のように、被告人の意思に反し、しかも、証人として尋問が可能であり現にその尋問が行われたにもかかわらず、当該証人にかかる伝聞証拠を証拠とする場合とで、おのずから異るはずである。刑訴法も後者については極めて厳格な規制を定めている。すなわち、いわゆる必要性の要件のほかに、特に、「公判準備又は公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況の存するときに限る。」と規定していわゆる特信性をも要件とし、これによつてようやく合憲性を保持しえているのである。従つて、万一にも右特信性の要件につき刑訴法三二一条一項二号の予想する限度を著しく越えてこれを解釈し運用するならば、それは伝聞法則の甚だしい逸脱として、憲法の保障する伝聞証拠禁止の趣旨を踏みにじるものであつて、単なる刑訴法違反にとどまらず、憲法(三七条二項前段)に違反するというべきである。
本件についてこれをみると、延岡の昭和五二年六月二〇日付及び同月二一日付各検面調書は、さきに二において述べたとおり、堂山警部補による直接的又は心理的強制の影響下でなされた延岡供述を録取したものであるから、特信性を欠くこと極めて明白であるのに、この理を無視し、右各検面調書を証拠として事実判断の用に供した原判決は、伝聞法則を甚だしく逸脱したものであつて、憲法三七条二項前段に違反するものと思料する。
ついでながら、最高裁昭和三〇年一月一一日第三小法廷判決・刑集九巻一号一四頁が、「刑訴三二一条一項二号は、伝聞証拠排斥に関する同三二〇条の例外規定の一つであつて、このような供述調書を証拠とする必要性とその証拠について反対尋問を経ないでも充分の信用性のある情況の存在をその理由とするものである。」(傍線弁護人)と述べていることを指摘しておく。
第二点 法令違反(刑訴法四一一条一号)、事実誤認(同条三号)、及び再審事由の存在(同条四号)<以下、省略>
弁護人後藤昌次郎、同西嶋勝彦、同角田由紀子の上告趣意
第一点 憲法三八条三項、三七条一項、三一条ないし刑事訴訟法三一八条、三一九条二項、四四条違反ひいては重大な事実誤認
一、二、三<省略>
四 まとめ
1 原判決が、被告人を本件犯行の教唆者だと認定する唯一の証拠は延岡供述である。原判決は、この延岡供述を全面的に信用する。その盲信ぶりは「兇行の敢行を痛恨してその愚を悟り、やくざ生活から足を洗うことを決意し、後に公判廷で翻えしたとはいえ、自己の経験した犯罪の全貌を卒直に供述して悔悟の意を表明した被告人延岡の態度」(五二丁裏以下)という表現となり、ついに一審の懲役一五年を破棄して懲役一三とした。
しかし、延岡供述は虚偽・架空であつた。同人が「悔悟」するのは、自らの身をかばうために右供述をして被告人を極刑の渕に立たしめていることである。延岡はぎりぎりの選択として、真の教唆者「A」の存在を告白した。首藤、中川、田中の三人も、これまで被告人の無実の証とは直接係わりないこととしてかくしてきた本件の「全貌」を明かすことによつて、被告人の冤を雪ぐ活動に獄中から立上つた。これは全く異例のことである。
ここに、共犯者の自白を唯一の有罪証拠として無実を訴える者を処断する誤判の恐ろしさが示されている。それは、自由心証主義のおとし穴でもある。
憲法三八条三項は、かかる誤判のありうることを慮つて、補強証拠を要求することによつて自由心証主義に枷をはめた。刑事訴訟法三一九条二項も、重ねてこの法理を宣言している。
自白が本人の自白のみを意味し、共犯者の自白、わけても密室での自白調書も除かれるというなら、とんでもない間違いである。裁判所は、誤判製造所という批判を甘受しなければならないであろう。
そもそも、自由心証主義自体、合理的証拠判断を前提にしている。一旦恣意的判断を許し、その控制として自白の補強証拠法則を用意するというのは背理である。合理的証拠判断=厳格な共犯者の自白評価がなされるとしても、なおかつ起りうるであろう誤判をさけるための補強証拠の法則、このように解してはじめて、自由心証主義と共犯者自白の補強証拠法則の調和が成り立つ。公正な裁判を要請する憲法三七条、適正な手続を保障する同三一条は、かかる趣旨を包含するものである。
原判決は、右にのべた正しい自由心証主義の原則をふみにじり、恣意的に延岡供述を評価したうえ、その裏付となる証拠の検討を全くしなかつた。それは、二重の誤りであつた。延岡供述をはなれて、被告人の有罪に結びつく証拠があるかどうかという視点から本件をみるならば、その証拠が全くないこと、そして延岡供述が完全に孤立した虚構にすぎないことを見破りえたはずである。
原判決はこの延岡供述にしがみつき、その客観的意味をはなれて、供述者たる延岡の「心情」を都合よく憶測して、勝手な論理で判決文をつなぎ合わせた。原判決を支配するのは、非論理と論理の飛躍、逆立ちした論理と論証ぬきのことばの洪水である。有罪の論理とは両立しがたい延岡供述の矛盾と不合理が無数かつ詳細に提示されているのに、原判決は、理由らしい理由を何ら付さずにすべて排斥した。
かくて原判決は、憲法と刑事訴訟法の基本原則をじゆうりんした。
被告人は無実である。延岡供述はことごとく虚偽である。
本件において、まちがつた練馬事件大法廷判決が正されねばならない。時は熟している。ケースは適切である。
2 延岡供述のウソは、その供述自体の変転、矛盾の検討を通じ明らかになつた。延岡供述を確実に裏付ける証拠がないばかりか、対立する証拠が山のごとくにあることが理解されたはずである。
六月二一日延岡供述が最後に録取されて以降、全く何らの裏付け捜査がなされていないという信じ難い事実は何を物語るのか。とりわけ、拳銃と二〇〇万円という物的証拠となるべきものが被告人に結びつく余地がない事実は、何と説明されようか。
これだけで、原判決の重大な事実誤認は十分明白ではないか。
そして、四人の上申書がダメを押している。真の教唆者「A」と被告人をおきかえたとき、本件の疑惑はすべて解消する。「A」の名が特定明示されなければ、延岡の弁明も四人の上申書も信用しないというのであれば、それは立証責任を転換させることを意味し、新な自白偏重に組みすることを意味する。「A」が何人であるか、もはや明確ではないか。共犯供述の慎重な吟味と、片々たる供述よりも客観的証拠の重視を説いた八海事件第三次上告審判決の教訓はいつ生かされるのであろうか。
いまこそ、偽りの共犯供述を排し、客観的証拠こそ重視すべしとの事実認定の根本原則をあらためて宣明しなければならない。法と正義がそれを要求している。原判決を破棄し、被告人に無罪が言渡されねばならない。
第二点 憲法三七条二項・同三一条違反
一 主張の要点
原判決の維持する一審判決は、延岡朝夫の検察官高木康次に対する昭和五二年六月二〇日付及び同月二一日付各供述調書(以下、高木調書という)を被告人の有罪の証拠としている。被告人を本件犯罪と結びつける証拠は高木調書だけであり、高木調書なくして被告人を有罪と認定することができない。
高木調書を証拠として採用する根拠法条である刑訴法三二一条一項二号但書は、伝聞法則の例外を認める要件として、「公判準備又は公判期日における供述よりも前の供述を信用すべき特別の情況の存するときに限る」といういわゆる「特信性」「特信情況」ないし「信用性の情況的保障」を要件としている。高木調書はこの要件を欠くものであり、したがつて高木調書を証拠として被告人を有罪とした一審判決及びこれを維持した原判決は刑訴法三二一条一項二号に反するのみならず、被告人の審問権を保障した憲法三七条二項に違反し、ひいては適正手続を保障した憲法三一条に違反するものである。以下、判例、学説、実務の動向を辿り、高木調書作成の経緯を明らかにして、このことを論証する。<以下、省略>
弁護人原田香留夫、同佐々木静子、同島崎正幸の上告趣意
第一点 憲法三一条違反及び判例違反(刑訴法四〇五条一号、二号)
原判決が被告人を有罪と認定した唯一の根拠たる延岡朝夫(以下単に延岡という)の検察官に対する昭和五二年六月二〇日付及び同月二一日付の二通の供述調書は、憲法三一条の定める適正手続の保障に違反して、起訴後の同人の捜査官による長期の、代用監獄(福井県武生警察署)においての、しかも判例の定める要件に違反し、強制尋問と利益誘導・惑乱等によつて、獲られたものとして、違法に収集せられた証拠である。
本件は、法の下の平等を云々するまでもなく、被告人と、原審・第一審の共同被告人延岡および同人の共犯者らが、憲法三一条と刑訴法の適正手続の保障を、いわゆるやくざと称せられる組関係者であるために、剥奪せられ、とくに無実であることのほんらいきわめて明白な被告人に対して、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判上の鉄則さえ保障せられなかつた、きわめて異例の事案である。
本件は、国民の人権の砦が、先ずそのような疎外せられる少数者に対する侵害を見逃すことによつて崩壊する、しかも捜査自体が決して成功を収め得ない、との教訓を雄弁に示すものであるといえる。
一 捜査官による被告人の取調の適否
1 捜査官による被告人の取調の適否については、刑訴法一九八条が「被疑者」としていること、被告人の当事者としての地位等を根拠に消極的に解するのが学説上は圧倒的多数説である。かつて消極説にたつ福岡高(昭和三一年六月二三日)などの判決例等もあつたのである。
2 これに対して、最高裁は、次のように判示し、結論として限定的にではあるが被告人の取調は違法でないとする積極説を採用している(最決昭和三六年一一月二一日、刑集一五巻一〇号一七六四頁以下)。<中略>
もつとも、同決定が、「起訴後においては、被告人の当事者たる地位にかんがみ、捜査官が当該公訴事実について被告人を取り調べることはなるべく避けなければならないところである」とし、ただそこから「直ちにその取調を違法とし、その取調の上作成された供述調書の証拠能力を否定すべきいわれはなく」と付言している点を考えるならば、最高裁も、基本的には被告人の取調は認められないとの立場をとるものといえる。
(一) 判示事案は、「原(第一審判決)判示第三の(第一審相被告人二名との共同正犯によるすり窃盗)事実について昭和三五年七月二〇日公訴の提起があつた」(第一審判決一七七〇頁、控訴審判決一七七一頁)後、同判示第一、第二の窃盗、同未遂の軽微な事件で強制・執拗な取調は考えられぬ事案、につき、右相被告人らの「任意の供述を録取」せられたほか被告人も「被告人作成の秋田地方検察庁市川検事宛の召喚願と題する書面」(同一七七二頁)を提出して、右のように「同年九月七日の第一回公判期日前に取調がなされて作成されたものであり、しかも、右供述調書は、第一審公判において、被告人およびその弁護人がこれを証拠とすることに同意している。」との内容である。
(本件でも、延岡九・一八、九・一九供述調書は、自ら上申書を提出して取調を求めて供述したものである。)
(二) そして、最決は、例外的に被告人の取調が認められるとする場合も、その条文上の根拠を刑訴法一七九条に求めており、したがつて任意捜査であることを要求している。「勾留中の取調べであるゆえをもつて、直ちにその供述が強制されたものであるということもできない」というのも、判示事案が被告人が検察官宛に召喚願を提出して取調を受けた(したがつて任意捜査である)事案であることを前提として考えられなければならない。しかも、「供述調書は、第一審公判において、被告人およびその弁護人がこれを証拠とすることに同意している」として、違法収集証拠の場合も同意により証拠能力が回復するといつた観点をもつけ加えている。
以上の諸点を総合して判断するならば、右最決は、「できるかぎり避けるべきである」という謙抑的な姿勢のもとに、①被告人のほうから取調を求め、②その結果得られた供述調書に対し、被告人および弁護人が証拠とすることに同意したという極めて特殊な限られた事案に関するものであつて、その射程距離を被告人の取調一般の適法性に及ぼすことはできないものである。
3 その後の下級審判例は、右最決の趣旨に沿つて、次のように、いずれも、積極説をとつているが、それは、任意取調のみに限定し、任意取調とみうるための要件が具体的に述べられるに至つている。
① 大阪高判昭和四三年七月二五日(判時五二五号六頁)<省略>
② 東京地決昭和五〇年一月二九日(判時七六五号二五頁)<省略>
③ 東京地決昭和五六年一一月一八日(新資料第一七号の一)
(被告人増渕利行の供述調書及び供述書の取調請求に対する決定)<省略>
③の二 同 地決 同日(同号の二)
(被告人堀秀夫の右同)<省略>
二 <省略>
三 任意取調の要件の違反
1 延岡の取調では、前記一、3①大阪高判の取調の拒否権の告知などまつたくなく、同人が自ら取調を申し出たものではなかつた。
(一) このことは、先ず堂山警部補の行つた連日の執拗な追究的取調の状態についての、延岡が、同人の九月一八日付検面調書第二項中の次の供述によつて明らかにしている。
問 君は、どうして波谷組長から川内組長殺害を命令され、また拳銃二丁とその実包一二発を受取つていないのが本当であつたとするならば、嘘のことを言つたのか
答 私は、警察署で堂山係長の取調べを受けましたが、その際堂山係長が朝から晩まで「お前には黒幕がおるだろう」とか「黒幕がいたら、それは誰か」と追求されたので、その取調べがきつく、やむを得ず嘘のことを言いました。
延岡は、翌一九日付(一)検面調書でも、堂山警部補との間で、私には「黒幕がいる」、「いやいない」ということで大きな声で言い合いしたことを述べている(二丁)。
これについては、右延岡検面供述を録取した高木検事の指揮の下で、延岡を武生警察署留置場に在監させることと、取調そのものが、右のような追究の目的のためであつたことが見逃されるべきでない。
問 (加藤検事) ではその起訴後から第一回の公判期日までの間の捜査の重点というのは、どのようなものがありましたか。
答 (高木) 加納一恵の本件犯行に加功の程度が、ある程度明致しましたので、加納一恵の犯行の程度すなわち手引きの程度を、確定するということ、第二点として組、上層部の幹部の特定、割り出しをするという二点でございます。
(前記第一審高木証言、四八五丁)
この二つの追究の目的だけのために、起訴(五月四日)後の同人を、六月二一日までの四八日間二七二時間一六分に及んで、しかもその間に後記違法利益誘導等を行う一方で、同人の前記健康状態が「特に肝臓と糖尿病で」治療を要することを知悉しながら治療を与えず、連日連夜苛烈な取調べを加えたのである。
すなわち、堂山警部補は、この全期間に大阪出張三日間を除いて前記目的のための延岡の取調べに専従して配置せられている。
同人自から第一審証言で、次のように告白している。
……延岡にも、そのこと、随分追及しました。(二回 二四丁)
……これらの本格的な追及をやつたのは大体、私の記憶では、五月六日ごろからではないかと思います。
(同 二五丁)
(二) さらに高木検事が、自らの行つた六月二〇日、二一日の取調で前記告知を真実に行つていないと認められることは、改めて次の事実から明らかである。
同検事は、主任検事として本件捜査全般を主宰し、自からの指揮の下に、しかも自ら取調を分担した延岡の取調を、四月一三日以降長期にわたつて、堂山警部補を配置して専従させ、五月五日起訴後も、自ら指揮して前記のように引続き背後関係の追及の目的で武生警察署代用監獄に勾留して取調させた(原審弁護人弁論第二(四)「延岡の違法取調は、捜査全体の一環として、とくに延岡取調を担当した高木検事と堂山警部補の一体となつたチームによつて行われている。」の項参照)。
因みに、起訴後五月五日以降六月一九日までの延岡の四四日間約二六〇時間四〇分の取調は、前同一条件のもとの武生警察署で引続き行われ、そのうち加藤検事が五月七日一時間、高木検事が五月二四日二五分間、二六日二時間四五分の合計四時間一〇分(1.60%)を除けば、圧倒的に大部分の取調を行つたのは堂山警部補である(但し、うち五月一八日小林課長一五分間、六月一四日堂山の代行の赤田警察官二時間二五分)。
同警部補が右延岡検面調書で供述せられているような追及の結果、同人を終に屈服させて、前記の六月一八日のデート・バック(「五月一六日付」)調書の作成に至つたもので、しかもこれに引続く同月二〇日高木検事自らの取調の際も先ず事前に堂山に取調を行わせると共に、同日及び翌二一日の取調は前記警察署の堂山の取調室において同人の立会の下に行い(原審延岡供述)、二一日の取調の事後も、五時間近くにわたつて堂山に取調及びあるいは前記「囲碁をしたり」等の懐柔を行わせているのである。
これらの事実からしても、同検事として、延岡に対し、取調の拒否権の告知など行うことは全くあり得なかつたのである。
さらに、同検事に、右のような任意取調としての認識すらが全くなかつたことが、前記証言に表われている。
すなわち同検事は、弁護人の問に対して「わざわざ右の起訴後の取調は第二回公判以降も許されるべきだと解する、唯だそのような判例がないので第一回公判後は取調べをしていないだけだと、うそぶいているのである(記録五一四丁)。
同検事の平素の取調の方法が、憲法と刑訴法上の人権を心底では尊重しないで従つて絶えずこれを無視し脱法しようとしていることの窺われる例として、同検事が黙秘権の告知にも異様な方法を用いていることについて、ほんらい被告人の上告趣意書である手記((その一))1頁、新資料第一号の二を引用する。
2 延岡の取調には弁護人の立会がなく、捜査官らは、前記一、3②東京地決の、弁護人を立会わせることなく取調をすることは原則として許されないとの適正手続の保障については、全く顧慮しなかつたどころか、かえつて弁護人の接見をさえ嫌忌してその事前に調書を作成するという態度で、右要件に違反した。
(一) 堂山警部補は、第一審証言で、次のように、自らの右の取調態度を、自己の六月一八日作成した虚偽日付(五月一六日付)供述調書の作成の、架空の経緯の釈明のなかで強調している。このことから、図らずもこれが取調の一貫した――六月一八日の際も――態度であつたことを明白に述べることに帰着しているのである(弁護人河村澄夫ほか九名趣意書第一点二、(三))。
問 (高木検事) どうしてそんなふうに(延岡供述調書の作成)、急いでおつたんですか。
答 (堂山) 実は、この日の朝、私が、出勤しましたところ、丁度、この日の午後に、延岡の弁護士である黒田弁護士が、接見が予定されているということを、聞いたからです。と申しますのは、被疑者の供述と申しますのは、時々、弁護士の接見を境に、がらつと、変わることがありますので、これでは、せつかく、重大な、証言をしてくれたのに、調書もとらず、そのままにしとけば、また、弁護士の接見によつて、また、ひつくり返るというおそれもあり、比較的急いで、延岡の供述を全部調書に、まとめました。
問 それでは、五月一六日、午前九時ごろから何時ごろまでの間、取調べをして、何時間ぐらいで、調書を作成したんですか。
答 今、申しましたとおり、九時ごろから、調べをして、約、三〇分ぐらいで、大件の概要を聞き取りまして、それから直ちに、調書作成にかかり、正確な時間は、覚えておりませんが、一二時半ごろまでかかつたんではないか、と思います。
問 一二時半までもかからずに、一二時少々で終わつてるんじやありませんか。そこまで覚えておりませんか。〔弁護人注・同検事は、第一審で未だ前記武生警察署の留置場出入状況が証拠調せられていないことにつけ込んで、堂山の偽証のために、丹念な打合わせで準備を整えていたことが暴露されている――五月一六日午前の取調の帰房時刻は一二時一〇分である。〕
答 ………
問 時間までは、記憶ありませんか。
答 はつきり、何分とかいうのは、記憶、ありません。(同証言調書三五丁、三六丁)
(二) さらに高木検事が、自らの行つた六月二〇日、二一日の取調で弁護人の立会権を保障する措置を行つたことも、その意志もなかつたことは、前記の堂山証人との問答自体からも明らかで、同検事が、この点に関しても堂山に共鳴し、全く同一の意識であることが知られるのである(「ましてや高木検事と堂山さんは平常から仲が良くて一緒に呑みに行くこともある仲です。」(前記一〇月二六日付延岡上申書八項、新資料第二号の三)。
3 代用監獄での取調であることについて
未決拘禁者の拘禁施設については、判例も、下級審で、昭和四二年二月七日和歌山地裁決定いらい、同四六年一二月一八日東京地裁決定に至る多数の準抗告決定例によつて、代用監獄例外説に定着しているのである。
このような代用監獄での自白について、東京高裁第一一刑事部は、昭和五三年七月三一日、大森勧銀事件(被告人近田才典、住居侵入・強盗殺人事件、一審東京地無期懲役)の無罪判決理由で、次のように述べている。
「前示のような捜査当局ないし捜査官の自白追求に対する姿勢からみると、被告人に対する勧銀事件の取調が苛烈であつたことは推測するにかたくない。とくに別件が起訴された一一月六日以降においても、なお代用監獄が勾留場所となつている限り、被告人が勧銀事件について捜査官を満足させる自白をするまでは、右の取調状態が際限なく継続する状況にあつたと認めざるを得ない。」(理由第二の三3(四))。本件違法取調と延岡虚偽供述は、最近数年間とくに論議せられている代用監獄が温床となつたのである(原審弁護人弁論第二(三)四〇頁以下)。
(一) 延岡は、本件犯行場所近傍の、福井刑務所に未決拘禁の設備が存在するに拘らず、且つ右弁論が引用する態谷弘元判事のような実務家の警告をも顧慮することなく、起訴勾留後の取調までが、前記警察署代用監獄で拘禁のまま行われ続行せられていることは、著しく違法である。
(二) 代用監獄制度は、監獄法制定当時、刑務所、拘置所をすぐには充実できなかつたため、明治政府が「実際巳ムヲ得ズシテ之ヲ用ヰル」ことにしたので、弊害が多いため、議会で「成ルベク留置場ハ将来ニ於キマシテ監獄トシテ用ヰナイ方針ヲ採ル積リデアリマス」と約束したうえで設けられたものである。
戦後も当然問題となり、昭和二二年には、司法省に設けられた監獄法改正調査委員会が改正要綱にその廃止をうたつたほか、政府もたびたび、昭和五四年一一月法制審議会部会の改正要綱案までは、廃止の方向を明言してきた。
捜査と拘禁の分離は、近代的刑事拘禁の姿と理解され、国際社会でも、守るべき刑事手続の最低基準とされている。
たとえば、
1 「司法官憲に引渡された後の被疑者、被告人の拘禁は警察にゆだねてはならない」(一九五九年一月、国際法曹委員会デリー宣言、)
2 「裁判官のもとへの出頭後においては、何人も捜査機関の拘束下に戻されるべきではなく、通常の刑事施設職員の拘束下に置かれなければならない」(一九七九年九月、国際刑法学会ハンブルグ大会決議、)
3 「被疑者を逮捕し、抑留する責任のある機関は、事案の取調べに当る機関としては、できる限り区別されるものとする」(一九八〇年三月、国際連合人権委員会『あらゆる形態の抑留または拘禁の下にあるすべての者の保護原則案』。)
右1、2、の国際会議には、わが政府関係者も参加しているのである。
このように代用監獄の弊害は、世界的に公認され常識となつている。代用監獄は先進国の中ではわが国にだけ残つている前近代的制度で、国際的水準からみても、恥ずべき制度なのである。
(三) 「わが国の警察は、犯罪捜査の実質上の主人公であつて、一旦これと目星をつけて逮捕した被疑者に対しては、逮捕状及び拘留状による計二三日間の身柄拘束の期間の殆んどを、代用監獄としての警察の留置場に抑留しておいて必要に応じていつでもその身柄を引出して取調べることができるようになつており、またその拘束中の被疑者と親族その他関係者との面会は勿論、弁護人との接見さえも捜査上の必要を理由として阻止(接見禁止)できるのである。勾留後の検察官の接見指定権の発動によつて、弁護人と被疑者とのいわゆる秘密交通権も、一回僅か一五分から三〇分程度の接見を全拘留期間を通じて何回かに絞ることによつて両者の防禦のための十分な打合せさえ事実上不可能にされているケースは甚だ多いのである。また被疑者に対する家族からの食物その他の物の授受、差入れの許否まで、つい先頃までその事件の捜査を担当している警察官の手中に握られていたのである。かくして、二三日間もの身柄拘束の期間を通じて、警察官は被疑者に対して全く生殺与奪の権を握つた支配者として臨むのである。」
(佐伯千仭、法と民主主義誌昭和五六年九月号四八頁)
本件のように、この代用監獄が、況や被告人をまで拘束する原則的場所であるかのように扱われて、見込みによる背後関係追及の理由での自白獲得のための糺問的取調べの手段とせられた甚しい事案は、その弊害の極致を、前記一、3③等の自白事例とともに示すものであろう。
4 結論
第一審判決は、(起訴後の被告人の取調について)「捜査の進展情況から止むを得ずそれを必要とする場合も否定し難く」としながらも、「このような場合、被告人の防禦権を実質的に侵害するおそれのない範囲内において、任意捜査としての被告人の取調べは許されるものというべく、右範囲内の取調べに基づき作成された供述調書の証拠能力は肯定される」と述べて、なお防禦権を侵害しないこと、任意の取調であることを必要とすることを謳つている(一三丁)が、それに止まつて、取調の実態がこれに反することに目を蔽つているのである。
ところが、原判決に至つては、「右堂山警部補の判断方針が然るべきことは当然である」(一六丁)、「被告人延岡を起訴後認定のとおり昭和五二年六月二一日に至るまで取り調べたからといつて、それが右のとおりまことにやむを得ない事情によるものである以上前示最高裁判所決定の示す法理上許されないものであるなどとはいえず、ましてかくして得た被告人延岡の供述を記載した供述調書が、第三者である被告人波谷に対する公訴事実証明のための証拠として許容されないなどとは到底いえない。」(三八丁)として、全く驚くべき無限定の態度を示しているのである。
しかし、本件のような異常な延岡取調が、許容されることはあり得ないのであつて、起訴後に被告人を取調べうるとしても、それは任意取調でなければならない。任意取調といえるかどうかは、前記一の判決例を参考に決定されなければならない。
前記二及び三、1、2、3のような状況のもとで被告人延岡を取調べることは、とうてい任意取調ということはできず、したがつて、右延岡の取調は違法であるといわざるを得ない。
右取調によつて作成された供述調書を証拠として採用することは、刑訴法に違反するのみならず、ひいては法の適正な手続を保障した憲法三一条に違反するものといわなければならない。さらに、同時に、被告人の取調は任意取調に限定し、しかもその取調もなるべく避けなければならない判例(最決昭和三六年一一月二一日、刑集一五巻一〇号一七六四頁以下)にも反するというべきである。<以下、省略>